ラベ・ニヒトリン・ネクト・ユニフス

   tenkyo

 そこには鏡がなかった。
 そこにはドームもなく、ボールもなく、剣も槍もなく、一切の娯楽と刺激に欠けていた。あるものは鍬であり、畑であり、穀物であり、また人の声だけだった。そういった場所では、人は刺激のあるものへ偏り、故に唯一の刺激の源であった人々の声に、人々は敏感になってくようになった。
 まさしくそのような場所で、インチ・ユニフスは育ってきた。

 この町には化物が住んでいる。
 ここに住んでいる人間、あるいは訪れる者や立ち去る者たちが、口を揃えてそう話すのを聞きながらユニフスは育ってきた。だからユニフス自身もここには化物が住んでいるのだと思っていたし、また恐れもした。得体の知れない気味の悪い生物の想像がユニフスの中に根付き、それがユニフスの恐怖をさらに煽った。そのように化物の存在はユニフスにとって全くの事実であり、ユニフスにとっての問題は、その化物がどこにいるかということだった。
 その日も、ユニフスは町から離れた深い森の中にいた。
 手に持っているのは斧であり、それは木を切るためのものだった。この森にはどんなに遠目から見てもそれとわかるほどの巨木があり、それを切ることがユニフスの目的だった。それは家主がユニフスに命じたことであり、家主の命令はユニフスにとって絶対だった。現にそう命じられて三年が経ったいまでも、ユニフスはその木を切るため、そのすっかり錆びきった斧を持って、毎日森へ来ている。

 ユニフスには過去の記憶がなく、最も古い記憶がこの町にある家の中で目を覚ますものだった。そのとき目を覚ました自分の傍らにいたのが一人の男で、その男はユニフスに父だと名乗った。そのときからその男はユニフスにとって父であり、人間の代表だった。その男がユニフスに与えたものは、食事の仕方であり、収穫の仕方であり、また一振りのナイフだった。ユニフスは、その男がどこかへ消えてしまってから三年経つ今でもそのナイフを肌身離さず持ち、大切にしている。その男の名はインチといった。インチ・ユニフスのインチという名は、彼から貰ったものだ。
 父がいなくなり、空いた家には新たな家主が来た。その家主はユニフスに対してどこか冷たく振舞うが、住まわせてもらっているのだし仕方のないことだとユニフスは思っていた。

 ユニフスが早朝から巨木を斧で打ち続け、今や陽が沈もうとしていた。疲れ果てたユニフスは巨木の傍らで座り込んでいた。巨木の側面にはユニフスが打ち続けた切れ込みがあり、その深さは今や幹の半分にも達しようとしていた。
 ユニフスは森の中で獲った果物を食べ、再び立ち上がって斧を持った。斧を持つ手にもほとんど力が入らないほどにユニフスは疲れきっていたが、陽が完全に落ち、周りが見えなくなるほどに暗くならなければユニフスは家に帰らなかった。そうしなければ家主に叱られるからだ。
 ユニフスがまた斧で巨木を十度ほど打つと、ふと背後の茂みが音を立てるのを聞いた。風が揺らすものかと思ったが、音が遠くから近くへと移動してくるのをユニフスは確かに聞いた。野良がいるのかと思い、またふと、化物の存在に思い当たった。途端に空恐ろしくなり、ユニフスは斧をその場に投げ捨てて走り出した。それを受けて背後の茂みを揺らす音が途端に大きくなり、はっきりとユニフスは自分が追われていることを知った。ユニフスが兎を思わす速さで走っていると、ふとその脇からナイフが零れ落ち、地面に落ちた。ユニフスはそれに気づいて立ち止まるが、引き返すにもすぐそこには化物の影があり、取りに戻るのを躊躇わせた。するとユニフスを追ってきていた化物の影がそこでぴたりと止まり、ユニフスが落としたナイフの場所に留まった。ついにユニフスにはどうすることもできず、取りにも戻れず逃げもできずにその場に立ち尽くした。
 そこでユニフスはその化物の姿をよくよく見ることができた。その姿は深く白銀の毛に覆われ、四本の手足すべてを地面につけて這っていた。目は鋭くユニフスの恐怖を煽り、耳は尖り、口の中には刃のような歯がびっしりと揃っていた。人の頭でも一呑みに出来そうなその口は、ユニフスの胸ほどの高さで揺れている頭部に付属されていて、その頭部は小柄なユニフスの倍はあろうかという巨大な図体に接続されていた。その姿は言い様もなくユニフスにとって恐怖だったが、それまでユニフスが思っていたような、気味の悪いものとは別種のものであるように思えた。そのことがユニフスにとっては少しだけ救いだった。だが、その姿は間違いなく化物と呼ばれるものであると確信した。
 恐怖しきり、両脚が弛緩したユニフスがその場でただ呆然としていると、しばらくの沈黙の後に化物が動き出した。ゆっくりと、ユニフスの動向を伺っているような様子で、地面に落ちたナイフへと歩み寄る。そしてユニフスの顔と、ナイフを交互に見やったかと思うと、その鋭利な牙と涎に濡れて鈍く煌きを放つ舌で、ナイフの柄を絡めとり、その口に咥え込んだ。ユニフスは思わず、声にならないような叫び声を上げた。化物が、父の大切なナイフを、そのままどこかへ持ち去ってしまうと思ったからだ。その声を聞いて、化物がその巨躯を反射的に揺らし、二歩ほどの距離を引き下がった。だがそのまま茂みの中へ潜り込んでいくことはせず、数秒の間様子を伺うと、またユニフスを凝視しながら、緩慢な動作でユニフスへと近づいた。
 化物は、ただ立ち尽くすのみのユニフスの目の前まで来たかと思うと、そこで歩み寄ることをやめ、ユニフスの眼をじっと見つめたまま、その場に座り込んだ。そして、ユニフスに何かを示すようにまたゆっくりとその頭部を下げ、咥えていたナイフを地面へと落とした。ナイフが落とされた後も、ユニフスは強い警戒と恐怖の心から近づくことをしなかったが、どれだけ待っても化物が敵意のある行動を起こさないことから、全身全霊の勇気をもって化物へと近づいた。幼児のような歩みで、長い時間をかけて歩を進めたユニフスは、ついに身をかがめて父のナイフをその手に取り戻した。
 そのとき、化物がまた立ち上がってユニフスに近づいた。その動きでユニフスはすっかり腰を抜かし、その場にへたり込んでしまった。そして、化物がすぐ目の前まで接近するのを見て、ユニフスは恐れからその両眼をすっかり閉じてしまった。化物の凄惨な牙が自分の肌に突き立 てら れることを想像し、ユニフスはその痛みに堪えるために全身を硬直させた。
 だが、いくら待っても皮膚が食い破られないので、奇妙に思ったユニフスは薄目を開けた。するとその眼に映り込んだのは、口内の刃を血塗らせることに期待する邪悪な瞳ではなく、ユニフスの傍らに背を伸ばして座り込む、化物の化物ならざる穏やかな姿だった。その姿に意外なほどの驚きを覚えたユニフスは、あまりに静穏なその背へと、思わず手を伸ばしていた。化物はしかし拒む素振りも見せず、それどころか身体を摺り寄せ、ユニフスの手をその剛悍な体毛の中へと受け入れた。化物がユニフスに対し心を許し、ユニフスが化物に対し警戒心を取り払った瞬間だった。
 ユニフスはこれ以降、森へ入ると必ず化物と会い、心穏やかな時間を過ごすことが増えた。化物はユニフスにとってどこまでいっても化物であったが、それでありながら、化物と過ごす時間はユニフスにとって何よりも平穏な時間だった。あまり多くの言葉を知らないユニフスには到底知りえないことだが、これがユニフスにとって友情と呼べる、初めてのものであった。

 化物を殺そう。
 そして、ユニフスがそんな言葉を聞いたのは、ユニフスが森で化物と過ごすようになってから、数ヶ月が経ったあるときだった。その日もユニフスは森に出ていたが、陽が沈みきる寸前から振り出した強い雨に打たれ、全身が震えるほどの寒さを感じたため、普段森から帰る時間よりも早くに家へと帰っていた。そして家の戸を開けるまさにその瞬間、ユニフスはその言葉を聞いた。
 家の中には、家主と、別の男がもう一人いるらしかった。化物を殺そう、という言葉は、家主ではない別の男が言った。もちろん俺だってそうしてくてたまらないさ、と、家主の声が言った。もう限界だ、と男が言った。化物のせいで町の人間がどれだけ不快な思いをしていると思ってる、とまた男が言った。だが、と家主が言った。もう限界なんだ、と男が家主を遮って言った。ユニフスはその会話を、戸のすぐ前でじっと立ったまま、雨に打たれながら聞いていた。化物を殺そう、と、男がまた言った。その言葉の後、二人はしばらく黙っていたが、そのうち家主が、長い吐息と共に言った。
 化物を殺そう。

 ユニフスは走り出した。ユニフスには二人の会話の意味の半分も理解できていなかったが、化物を殺そう、という言葉だけは理解できていた。化物、というのは当然あの化物のことで、殺そう、というのは、どこかへいかせてしまおう、ということだ。ユニフスは、ユニフスの父、インチがいなくなる前日、今と同じように男たちが、殺そう、と言っていたのを聞いていたので、その意味が解った。走り出したとき、ユニフスは戸の脇に立てかけられていた木材に足を引っ掛け、全て引き倒してしまった。木材が倒れる大きな音で、家の中にいた二人が外に飛び出て、怒号を上げた。後姿を見られたようで、家主が自分の名を呼ぶのを、ユニフスは聞いた。
 ユニフスは構わず走った。自分が唯一穏やかな時間を過ごせるあの化物がいなくなることを想像し、ユニフスは恐れを覚えた。一番最初に化物の姿を見たときに感じたあの恐れとは別種の、奇妙な恐れだった。ユニフスは背後で、多くの人の声と、多くの人の足音が渦巻くのを聞いた。
 ユニフスは構わず走った。

 ユニフスが再び森に入った頃、雨はその勢いをさらに増し、ユニフスの頭上で木々の葉を叩いた。ユニフスは雨を吸った土を踏みつけ、あの巨木のある場所まで駆けた。ユニフスがそこに着いたとき、巨木の周りには誰一人としていなかったが、ユニフスがそこで化物の姿を探していると、いつかのように背後で茂みが揺れた。その音に振り返ると、ユニフスの姿を見つけた化物が、ゆっくりと茂みから現れるところだった。
 化物へ駆け寄り、ユニフスは化物に男たちが来ていることを伝えて隠れさせようとした。しかし化物に言葉を伝えることはできず、ユニフスの非力さは化物を抱えて走ることもできずに、結局その場から動けないままでいると、遠くから多くの人の足音が、ユニフスたちの場所へと近づいてきた。それから数秒もしないうちに、ユニフスと化物は多くの男たちに取り囲まれていた。その中にはユニフスの知る者の姿も、知らない者の姿も、また家主の姿もあった。十数人ほどの男たちは誰も、鍬や斧などをその身体の前に構えていて、それを今から何に使うのかユニフスにはよく理解できなかった。
 化物から離れてくれ。
 男の中の一人が言った。ユニフスの知らない者だった。ユニフスは、その言葉が自分に向けられたものだと思い、拒否のために首を横に振った。ユニフスは化物を庇うために、巨木と自分で化物を挟み込むようにして立った。頼む。さっきの男が言った。その化物から離れてくれ。同じ男が言った。ユニフスはさっきと同じようにして首を横に振った。すると、男は舌打ちし、悪態をついて、ユニフスを睨んだ。睨まれても、ユニフスにはその場を退くつもりはなかった。オオカミサマ、と別の男が言った。ユニフスにはよく意味がわからなかった。
 そのようにしてユニフスがその場を退かずにいると、ついに男の一人が手に持つ鍬で殴りかかってきた。ユニフスはこのとき、男たちが持ってきたものがこういう目的で使われるのだということを知った。ユニフスは化物を庇うために、振り下ろされる鍬の正面に立ったまま動かなかった。そして男が鍬を持つ手から力を緩めなかったため、その柄は狙いを違わずユニフスの右肩を打った。ユニフスがその場から一歩も引き下がらなかったため、刃がユニフスの筋繊維を引き裂くことは免れたが、男の膂力を余すところなく受けたユニフスは、痛みにその顔を歪めた。鈍痛がユニフスの身体を伝播し、両足を崩したユニフスはその場に尻から倒れこんだ。すると倒れこんだユニフスに向かって二人ほどの男が歩み寄り、泥まみれの靴の底でユニフスの腹や顔を踏みつけた。数える限り二十七度目ほどの痛みが来た瞬間、ユニフスは声を上げ、そのときも大切に持っていた父・インチのナイフを取り出し、大声と共に振り回した。滅茶苦茶な軌道のナイフが、二人の男の足や腹の皮膚を四箇所ほど引き裂いた。二人の男は呻きと同時に引き下がったが、また別の男が歩み寄り、ユニフスの頭を掴んだ。ユニフスはまた叫びに似た声を上げ、父のナイフを男の右腕に突き立てた。男が叫ぶのにも構わず、ユニフスが手に持つナイフを秩序のない動きで何度も振り下ろすと、男の右手の甲に突き刺さり、骨に阻まれて止まった。そのとき、ユニフスは自分の後ろで、家主が斧を自分に向かって振り上げているのを視界の端に捉えた。ユニフスは渾身の力で男の右手からナイフを抜き取り、家主へと振り返った。だが、既に家主は振りかざした斧を、ユニフスの頭を叩き割るために動かし始めたところで、ユニフスにはそれを防ぐことも、避けることもできなかった。
 そのとき、ユニフスの視界が俄かに白の一色と化した。何が起きたのかを理解できないままのユニフスへ、次に獣の唸りが届いた。次に、水の詰まった樽を思い切り蹴飛ばしたときのような、鈍い音が届いた。次に、白一色だった視界に赤いものがいくつか混じりこんだかと思うと、ユニフスの視界は晴れた。
 そしてユニフスが見たものは、驚いたような、呆然としたような、家主の顔だった。家主は口を開いたまま、ユニフスの足元あたりを見ていた。ユニフスがその視線を追って、自分の足元を見ると、そこには白銀の、真ん中あたりに斧が深々と突き刺さった、巨大な毛玉に似たものが転がっていた。ユニフスが座り込んでその毛玉に触れると、その手前の部分が持ち上がって、そこにある二つの小さな瞳が、ユニフスのほうを見た。そこでようやく、ユニフスはそれが化物の姿なのだと知った。
 ユニフスはまた声を上げて、化物の身体から斧を抜き去り、家主や、その他の男たちを見た。男たちはそれぞれ顔を見合わせて、奇妙な表情をしていた。ユニフスが化物に触れると、化物はまだ呼吸をしていた。斧に穿たれた穴から濁流のように血が噴出し、土に吸い込まれていった。
 お前のせいだ。
 家主が言った。ユニフスにはよく意味が解らなかったが、家主に続いて別の男も言った。お前のせいだ。ユニフスは声を上げ、化物の身体を抱え、走って逃げ出した。重くてとても持ち上がらなかったはずの化物の身体は、そのときは奇妙なほど軽く感じた。男たちは何故かユニフスを追ってくることはせず、後ろから何かを叫び続けるだけだった。お前のせいだ。お前のせいだ。オオカミサマ。ユニフスにはよく意味が解らなかった。
 化物め。
 ユニフスにはよく意味が解らなかった。

 しばらくの間走っていると、ユニフスは森の中に朽ち果てた建築物を見つけた。ユニフスも全く知らない場所だった。建築物の上部には、十字の装飾がなされていた。とにかくどこかに隠れたかったユニフスは、その建物の中に入ることにした。正面の扉は壁面ごと崩れて使い物にならなかったため、ユニフスは側面の窓からその中へと入った。中には驚くほど何もなく、元は並べられていたのだろう長椅子が、壁際で邪魔者のように雑多に積み上げられていた。
 ユニフスは化物の身体を、冷たい床の上に下ろし、自分も座り込んだ。ユニフスの身体には、化物から流れ出た血流が染み込み、赤黒く固まっていた。ユニフスは呼吸を整えようとしたが、身体の疲労がなくなっても、なぜか呼吸は乱れたまま元に戻らなかった。鼻の奥が熱くなり視界が滲んだが、ユニフスにはそれがどういうことなのかよくわからなかった。
 化物もまだ呼吸を続けていた。その荒い呼吸の音が、他に物音のない建物の中で反響し、やけに大きな音でユニフスの耳に届いた。呼吸の度に、裂かれた化物の腹から血が流れ出て床に広がっていく様を、ユニフスは見ていた。生物の身体から血が流れすぎると、そのうち呼吸を止めてすっかり動かなくなってしまうことを、ユニフスは知っていた。ユニフスがその背に触れると、化物が瞳の動きだけでユニフスを見た。ユニフスはその姿を見ながら、ついさっきまでの家主たちの顔を思い出していた。化物であるという理由だけで、化物の腹を引き裂いた男たちの顔を、ユニフスは思い出していた。ユニフスは目元を拭い、化物の首を支えて、その瞳を見た。
 そこに、自分の姿が映りこんでいるのが見えた。
 この町には化物が住んでいる。ユニフスは、ずっとそう聞いて育ってきた。人々がそう言うのを聞いてきたからこそ、ユニフスも化物がいるのだろうと思ってきた。それがどんな姿をしているのかは解らなかったが、森の中で始めて化物に遭遇したとき、ユニフスはその姿がこれまで見たものの中で何よりも化物らしかったので、化物のことを化物と思い、化物と呼んだ。
 ユニフスは、それまで自分が化物と呼んできたものの首を支えた。化物は既に、呼吸をしていなかった。ユニフスはその瞳を覗き込み、そこに映りこんだものを見た。
 そこに映っていたのは、自分の顔だった。
 ユニフスはしばらく息を止めた。
 そこにあった、初めて見る自分の顔が、これまで自分が見たものの中で、何よりも化物らしく、醜かったからだ。
 お前のせいだ。ふと、ユニフスはさっきの言葉を思い出した。お前のせいだ。お前のせいだ。化物め。ユニフスはそのときになってようやく、その言葉の全てが誰に向けられ、どういう意味なのかを理解した。
 化物は、自分のことだったのだ。
 自分がこれまで化物と呼んでいたものは、化物ではなかったのだ。 
 家主たちが腹を裂こうとしていたのは最初から、自分のほうだったのだ。
 自分がこれまで化物と呼んでいたものは、本当の化物を庇って呼吸を止めたのだ。
 ユニフスはまた声を上げた。
 建物に反響した自分の声が、ユニフスの耳に届いた。その声は低く、がらがらしていて、聞くに堪えないほど醜かった。ユニフスは声を上げながら、気の狂ったように床に頭をぶつけた。ユニフスは大声を上げながら、もっとも化物らしい動作で、床に頭を何度もぶつけた。そうしているうち、甲高い音を立てて、父の大切なナイフが床に転がり落ちた。ユニフスはそこでぴたりと声と動きを止め、そのナイフを見た。
 いつの間にか、ユニフスの呼吸は落ち着いていた。
 ユニフスは、傍らで倒れたままの、化物ではなかったものの姿を見てから、ひどくゆっくりとした動きで、そのナイフへと手を伸ばした。本当は最初から、化物として斧で叩き割られるはずだった、その手を伸ばした。
 そしてユニフスの手が、ナイフを掴んだ。

 そこは、一切の娯楽と刺激に欠けていた。そこにあるものは鍬であり、畑であり、穀物であり、また人の声だけだった。そういった場所では、人は刺激のあるものへ偏り、故に唯一の刺激の源であった人々の声に、人々は敏感になってくようになった。そこにはドームもなく、ボールもなく、剣も槍もなかった。
 そして、そこには鏡がなかった。


inserted by FC2 system