夢の見るゆめ

   遠藤ジョバンニ

 変わりたいと願った。真実を見つけた。そう夢も、ゆめを見る。
 床に這いつくばる泥にまみれた生活に、ただ一片のささやかな隙間もない日々を過ごしていると、私の中の誇りのようなものは、磨耗して目の前から姿を眩ましてしまった。いつ無くなったのかもわからない。ただ屈服してその泥をすすることで、私は生きていくということを知った。
 そしてその屈服は服従に変わる。自己に備わる優しさ、なんて生半可なものじゃない。シンデレラは心優しいね、頑張り屋さんだね、なんて一日中飛び回る私の様子をキッチンのお勝手から隣の麦挽きおばさんは私を誉めそやすが、現実はそんなじゃない。そうしないと、生きられない。生きるという第一線で堪えるために、私は自分を偽らなければいけないの。
 真面目で、働きものの自分を作って行かなければ、誰にも知られずに倉庫の隅っこで死んでいるかもしれない。そうして太ったねずみにこけた頬を齧られるんだ。いつも笑顔を絶やさず真面目で愚かなシンデレラを演じ、あの継母と姉さんたちに必要とされなければいけない。自分たちが可愛くて仕方ない彼女たちに、奴隷を扱う甲斐性はないし、だからあくまでも一生懸命な人が一生懸命やっているのを傍観していたいのだ。
 でも私は生きていたいから、どんなことでもする。家事、掃除、手入れ、始末、支度。夢の中での私は六人いる。ミシンは三台ある。姉の頭に挿すだけで髪がまとまる金の櫛。食器には足が付いている。モップは廊下の隅の埃まで見逃さずひとりでに走る。
 目覚め一日が始まると夢への羨望は朝露に掻き消える。起きるのも自分、ミシンをかけるのも自分。そして私は、全てをこの手で行っていかなければいけないの。強く感じる、灰をかぶった体。眠れる朝に、そう思ったのも、独り。

「シンデレラ、明日が何の日かご存知?」
「いいえ。知りませんわ、お姉さま。なんですの?」
 二番目の姉の頭を結い上げながら、鏡の向こう側の姉へ微笑む。
 うそ。開けるのを面倒臭がるから手紙は全て私がレターオープナーで開けておく。
 鏡の向こう側、つまり私の背後には何もなく誰もいない。その光景が眼球を通して私の頭へと届けられると、場面のひとかけらが薄ぼんやりと蘇る。
 場面のひとかけらに手をかけると、姉の言葉が浮かび上がってくる。そう、この後姉は『あら、やっぱり貴女は何も知らないのね。おかわいそうに』と言う。
「あらやっぱり貴女は何も知らないのね。おかわいそうに」
 そして私が答える。
「ええ。私ったらすっかり何も知らないの。教えてくださいますか?」
 そうすると姉は舞踏会の話を切り出す。
「しょうがないわねえ。明日は王子様のお城で舞踏会が執り行われるの。高貴なあたしたちも違わず呼ばれたってわけよ。みすぼらしいシンデレラ、貴女は留守番よ、第一、呼ばれていないんだもの」
 私は、そう、あの場所でこの会話をしたことがある。
 うそ。明日の舞踏会は町中の娘を集めて行われる盛大なもの。私にも招待状は来ている。それも知っている。
「ああら、シンデレラにも招待状は届いていたわ」
視界に紫がけぶる。見ればもう一台ある鏡台に、しなりともたれ掛かる一番目の姉が長い煙管をふかしていた。私の手元でちらりと行われた小さな舌打ちが、手鏡に映りこんだ。
「……姉さん、それって嘘でしょう? 届いていないのでしょう?」
「いいえ。あったわよぉ。確かこの辺りに置いておいた――」
 おもむろに煙管の燃えカスを鏡台の上の小さな灰箱へと捨てる。煙管がたたんっと小気味いい音をたて、火種が飛び散る。やがて灰箱の中ですでに燃やされた散り散りの紙切れの端に引火し、灰箱は小さな火をゆらめかせた。
 そうしてから、一息に姉はわざとらしく耳障りな声を上げた。
「ああ! ああ! 燃やしてしまったわ、私ったら間違えて灰箱の中に招待状を入れておいてうっかり煙管の火を移してしまったんだわぁ!」
 慌てて灰箱の元へ駆け寄ると姉は、手のひらで何の躊躇もなく箱の灰を掴みそして、私に投げつけた。
 皮膚に降りかかる、細かなかさつきたち。凹凸だらけの私の体にさぞ面白く積もっていることだろう。硬く身構えたまま反射的につぶった目蓋をそろそろと開いていくと、私の眼前で世界が静止していた。
 灰は、空中でそこに留まることを許されていないはずだ。姉は、瞬きをしなければせっかくのり付けした睫毛が剥がれてしまう。なのに、なんで、皆が動かないの。私だけが切り取られたように身動きが取れる。一枚の絵画になってしまった世界に私は混乱し、何かを確認したくて、姉のヒステリックな動きを見せたままのドレスをつついてみようと恐る恐る近づく。と。
「シンデレラ、シンデレラね」
 不意に掛けられる声に、足元から驚きが体の全てを走りぬく。振り向いた。そこで見つけるのは、純白のローブに包まれ、えくぼを散らした満面の笑顔。女が私と同様に、止まった世界で動いていた。どこか色のぼけた世界に、白と、その純白にくるまれた栗色の髪が七色の輝きを放っている。その光景は印象的で、私の網膜に鮮明に焼きついた。
「よかった。ちょっと早いけど魔法をかけに来たの」
 私と女との間に生まれる時間。魔法。その言葉を口に含んで頬の内に呟く。言葉そのものが何かを帯び、私に囁きかけているようだった。怪訝な表情を崩せない私を余所に、まだ少女の面影残る、穏やかな物腰の女は魔法使いと名乗り、笑顔を崩さないで、何か矢継ぎ早に話している。
「え、あ。そっか。まだ舞踏会に行きたいって思っちゃいないのか。ま、そうそうおばあちゃんみたいにはいかないか」
 そして弓なりに細まり微笑んでいる、瞳がその隙間からわずかに覗いた。柔らかそうな白いローブの中を一瞬、風が駆けた。今、きっと風も静止しているというのに。彼女の持つ異様な雰囲気に、私は呑まれようとしている。そしてそれを、信じかけ始めている。というか、信じなければならないような気がした。この世界が受け続ける、強い力のように。
「最近のシンデレラはすぐ魔法使いを信じようとしないのねえ。やれやれ。世相の変化ってやつかしらそれとも――」
 肩をすくめ取り出した杖をかざし、それを私に向けて突きつけた。
「今のあんたが特別なのかしらね」
 私の凍りついた表情を、視線で舐めまわしてから微笑んだ。先端をちょこっと振ると、瞬く間に杖からの光が私の頬の横を掠め、延長線上にいた二番目の姉の頭髪を全く違うものに変化させてしまった。
「なんで魔法使いが……?」
「あんたを助けに来たのさ」
 驚いたままの私へ、魔法使いはこう続ける。
「シンデレラ、あんたはこれから本当ならば私の魔法で舞踏会に行って王子と出会う。それからは放っておいてもあんたのその力強い瞳に引き寄せられて、王子は必ずあんたを見つけ出すだろう。そして王子のお妃になって、あんたは幸せ。お終いさ。幾人もの人々が幾度も伝える、正真正銘のあんたの物語。それも一つのカタチだろう。構わない。夢があっていいじゃないか」
 そこまで一息に魔法使いは言葉を駆け上がった。さらに緩めず唇は動く。
「今までずっと、そうしてきただろう。そしてきっとこれからも。例えば夢見がちな少女が努力を覚えた女になって、ふとしたことから力を手に入れた魔女になって、いずれ大きくなった孫がその祖母を疎んじ始めて、縁を切るようなことになった、てくらいに長くあまりに雑多なことがありすぎる年月にも、シンデレラの思考は、変わらないまま、シンデレラの人生は、そのまんま。つい今さっき人生を終えていたあんたも、お勝手裏の井戸で、涙を流していたんだよ」
 なんでこの魔女はこの後私がお勝手裏の井戸へ行こうとしていたことを知っているのだろう。そして再び沸き起こる、鮮明な映像。私は今日のその時その時間を、いつも冷たい月と冷たい井戸のふちに過ごしていたでもそれは今の私じゃない。
 だって今私は、誰もいなくなった井戸に唾して、心の底から姉たち蔑みたいからだ。涙なんてもの、一滴たりともくれてやるものか。
「でもね、シンデレラ。1800億と35回目に生まれたあんたは、それまでのあんたと全く違う。自分の力で生きなくっちゃいけないことを、ちゃあんと知っているんだ」
 魔法使いの声色は優しさと穏やかさを含んでいる。そうして時間を惜しみなく使ってたっぷりと笑った。
「もちろん、私も」
私は張りつめた気持ちのまま、つま先に力を籠めた。魔法使いの気配が、二本の足の立つそこから、徐々に拡がり円形を描く。端が少しずつ浮き上がるローブの内側では淡い空気の流れが生まれ、かぶった布のたゆみから、つややかな栗毛が思いがけず零れ、その輝きを増していく。
 誰もが手を差し伸べてくれ与えられた、幸せ。おそらく、その幸せはきっと後に私を苦しめるのだろう。どうしてかそれを、私は前から知っているような気がする。
「そうさシンデレラ。他人に自分は与えてもらえないのさ。前のあんたが、今のあんたに生きているんだ、だから分かる。物語が終わってもシンデレラは生きなきゃならない」

 王子様、王子様、私はいったい何をしたらいいのかわからないのです。
 シンデレラ、君はそのままにただ、僕の側にいてくれればいい。掃除も、支度も全てもうやらなくてもいいんだよ。そうだ、好きな本を読むといい。
 でも王子様、私、自分の好きな作家が誰だかわかりませんの。
 では、趣味をじっくり深めていけばいい。
 でも王子様、私、自分の趣味を知りませんの。知っていたのは、炊事と洗濯とアイロンかけ、それとお姉様たちの服の仕立てと、幾分かのレース編みの仕方でございます。
 もうそれはやらなくていいんだよ。召使いたちが全てをやってくれるだろう。
 でも王子様、王子様が見つけてくださるその瞬間まで私はその人々と同じ日々を送っていたのです。彼らと私の違いは一体なんなのでしょう。
 深く考えてはいけないよ、シンデレラ。君はお妃で僕の愛すべき人だ。それでいいではないか。
 でも、王子様、私、この幸せがこわいのです。この幸せを受け取っていなかったならわかることが、わずかに気になってたまりません。
 与えられることに怯えてはいけない。神に仕えその誠実で身をなした君は、僕からの無償を甘んじて受け入れることに、いまは身を捧げてほしい。
 でも、王子様、このにしんのパイも、様々な卵のきれいにむかれたものも、子羊の香草蒸しも異国の珍妙な果物の甘さも、月日を忘れたワインも海老も根菜も大好きなのです。
 では僕も、シンデレラのようににんじんを食べれるようにならねばな。
 でも、王子様、私途端に不安になってしまうのです。もしかして、なんでも好きなのではないかと。少しでも嫌いなものがないか必死に探すのですが、見つからないのです。みな私の舌に乗っかって楽しげに踊ります。私はおいしく感じてしまう。ああおいしい。ああ、おいしい。ああ。

 でも、王子様、
 でも、王子様。
 でも、王子様。
 でも、王子様。
 でも。王子様。
 
 鮮やかに蘇る、私の中の、私の記憶。一筋が流れたように、そこは冷たくかたくなで、未来が胸を捻りあげる。
「でもまて、幸せに変わりはなかったろ。このまま私が馬車とドレスを魔法で用意して、舞踏会に行くこともできる。そうすれば必ず、確かな幸せが手に入る。それにこんな生活ともおさらばできる。」
 私の中で、王子様の声が残響する。そして分かっている。確かに幸せはそこに存在した。でも、その幸せは、本当の幸せなの? 
 額から季節の関係ない汗が滲み出している。私の耳の側で無数の銅線が円を描きながらぶつかりあうような音が鳴り続ける。
「あんたには選択の余地があるのさ。どうしたい? シンデレラ。あんたに魔法をかけてあげよう。早くしないと日が暮れちまうよ。あ、もっとも、時間を止めたままだったっけね。はは、だけどこれにも限度ってもんがある、今、決めなきゃあ」
 魔法使いを取り巻く風が、次第に強くなっていく。とうとう頭にかぶっていたローブが気流にはらりと解けた。そしてフードの中で渦巻いていた亜麻色の長髪が溢れだし放たれて彼女の周りに動めく。太く細い髪の束が風に舞い遊び、光に潤み、色をばらまき、美しい。
 彼女は視界に溢れたそれに目もくれず、立ち尽くしている私の瞳に喰いついてくる。私の耳の側でぎゃんぎゃんとその音は鳴り続けている。拡がった彼女の気配が、集まり始め、取り巻く風が次第に強くなっていく。収束していく彼女の力、不思議と私の思考も一つまた一つと収束している。そして、全てを決め、彼女へと向かい合うと、満足そうに微笑んだ。えくぼに自在な栗毛が掛かり、その時間を確かなものにした。美しい髪だ。
「魔法使い、ひとつだけお願いがあるの」
「その目、嫌いじゃないね」
「私を――私を、読み手側の世界に連れて行って」
 私の真剣な眼差しは、彼女の一瞬の驚きを捉えていた。それがまた間を置かず微笑みに変わる。その微笑みは不敵な色が濃く、彼女の本性が滲み出ている気がする。
「……あんた、いつから知ってた」
「どことなく。あなたと会えて確信したわ」
 自分の中で既視感に似た感覚が全てに張り巡らされていることは分かっていた。もうひとつ、何者かによって全てを強制されているこの感覚。自分の判断で行ったその後に、そう自らで感じた感情の後に、襲ってくる義務感。生活していくうちに気づいた、大きな何かが私を支配しているのではないかという事実。私だけではない。この世界まるごと。
「あんた、まったく才能あるよ」
 短い息がすぼまった赤い唇から吐き出されて彼女は目をぎゅっと瞑る。そして伏せられたまつ毛が勢いよく上を向き、私を見据えた。
「いいよ。そうしてあげよう。ただ、連れて行けるのはあんただけ。1800億と36回目のシンデレラは、またこの世界に生まれる」
「かまわない。次の私にまた記憶を残せばいいだけなんでしょう」
「そんな簡単に記憶は受け継げないもんになってる。シンデレラ、今のあんたは特別なのさ」
 それだけ言うと魔法使いの全身が淡く光りだした。光の粉が湧いて舞い上がる風に混じる。
 静かに彼女は目蓋を閉じ、両手に杖を添え、高く掲げた。それでも私は続ける。もし――。
「もし、1800億と36回目のシンデレラが私の記憶に気づかなかったのなら――」
 背筋が伸びる。私の今に、ページは用意されていない。耳の横で鳴り響き続けている音が、頭の中までに入り込んできた。やかましさに眉根を寄せる。頭の中に入り込んだそれは膨れて響きだす。今なら、とても自由なことが言える。
「それまでなのでしょう。そのシンデレラは」
 私は笑った。
 光の粉が満ちて私を覆うと、光の速度が徐々に上がっていく。目の前に広がる光の壁に手をさし入れると、薄いそれは易々と私の指で穴を開けた。流れる水のように指に伝わるなめらかな抵抗と、光の向こう側にある静止したままの世界。ただそれだけを見ると私は手を戻した。
 頭にかきまわす音が最高潮に達し、目の奥が軋みをあげた。膨張していく音、加速していく光。それが最大を迎えた瞬間、ぷつりと途切れる。
 囲っていた壁が散りゆくよう崩れ去り、私たちは、世界を消えた。

  ♯

「ああ、可哀相なシンデレラ。舞踏会に行きたいのですね――」
 定刻通り、夜。闇に輪郭を浮かばせる白いローブを纏うふくよかな老女が、どこからともなく井戸裏に現れる。
「わたし魔法使いがそのお手伝いをしてあげましょう。さあカボチャとトカゲをもっておいで。ぼろきれはドレスに、カボチャは馬車に、トカゲは従者にしてあげよう」
 柔らかな首元に肉が敷かれ、どことなく線のぼやけた輪郭を区切るようにまだ輝きを捨てない美しい栗毛。布からはみ出るその束は宙の光を集め、歳を数えるのを忘れている。
 そうして彼女、シンデレラにとっては初めてで、自分にとっては意義でさえあるくらいに使い込まれた言葉を告げた。伏せたままの目蓋の裏に、涙を滲ませ井戸にもたれかかっているシンデレラが浮かぶ。
 彼女の孫も、これくらいの歳になる。しかしこの魔術の力に溺れた若い魔法使いは、彼女の目の前から姿を消した。彼女と同じ栗色の髪の美しさを、今もありありと覚えている。この座を譲ろうと考えたときもあった。だがあるとき忽然と、孫はその姿を消してしまっていたのだ。才能は充分にあった。いまだに悔やまれることは沢山ある。
 ――今夜はダメね。余計なことばかり考えすぎてる。
 小さく頭を振り、過去の渦巻く思考を晴らそうとするもそれは僅かに残ってしまうが、それでも始まる、彼女の1800億と36回目の仕事。
 そして老いた魔法使いは、ぽってりとしたその目蓋を、開ける。そこに彼女の姿は認められた。
 井戸端にしなれかかるシンデレラが、いまゆっくりと口を開く。
「シンデレラコンプレックスって、知ってる?」

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