わたしと彼の一時間十八分三十七秒

   you

   5

 ――おそらく夢見てると思う。
 だけど、それは現実に起きていた光景の再現だった。
「外人」
 綾瀬エリ、と言われるより外人と言われていた小学生のあの頃。わたしに友達なんてひとりもいなかった。
 クラスのいじめっ子たちは団結し、わたしを外人と攻撃した。
 アニメやマンガには悪い敵役が存在している。その敵役を倒すことを目的に正義のヒーローは仲間を集め団結する。この敵役がいなければ、正義のヒーローたちの結束はありえない。
 わたしは金髪で、瞳の色が違って、鼻が高い。クラスの人たちからしたら異形の存在だ。だから敵役に抜擢された。
 外人と言われるのがなによりも辛かった。わたしはあなたたちと同じ日本人でもある、わたしは外人じゃない。
 でも正義のヒーローとその一味は敵に非情だった。いじめっ子たちは私の上履きに『外人』とイタズラ書きしたり、教科書に『外国へ帰れ』と書き込んで攻撃してきた。いじめっ子たちが一度わたしを攻撃しだすと、クラスの人たちが私にとる態度は急に冷たくなった。敵に味方するなら、その人も敵として扱われるからだ。
 耐えられなくなったわたしはお母さんに相談した。お母さんは血相を変え、学校に抗議しに行った。いつも温和なお母さんが鬼のような剣幕で、担任の先生に責め立てていたので、わたしはとても驚いた。激昂したお母さんを見て、わたしの心は痛くなった。
 次の日、担任の先生が緊急のホームルームを開き叱咤した。クラスの人たちのなかには先生に怒られて泣いている生徒だっていた。
 これでわたしは外人ではなく日本人としても見てくれる。
 ――と、思っていた。
「てめぇ。先生にちくってんじゃねえよ」
 わたしはいじめっ子たちに囲まれ、ギロッと激しい眼差しを浴びる。予想外の出来事に気が動転していると同時に、恐怖がじわじわと胸からこみ上げてきた。
 先生に怒られていた彼らはわたしをいじめていたことを悔いて泣いていたんじゃない。なんで正義である自分たちが、敵であるわたしを攻撃して怒られなければならないのか、という悔し涙だったのだ。
 その日から、わたしへのいじめはエスカレートしていった。
 わたしは彼らから見たら『外人』という敵役なんだ。この一度決まってしまった役は、舞台が変わるまで変更不可能だ。だからわたしは小学校で友達作ることを諦めていた。
 でも、神様はわたしを見捨てなかった。
 わたしが掃除当番をしているときだった。いじめっ子たちは担任の先生の目を盗んで、わたしひとりに当番を押し付けた。
 わたしは機械のように黙々と掃除をした。クラスにはわたし以外だれもおらず、ほうきを掃く音だけがむなしく響いていた。
 ちりとりでごみを拾おうと思ったとき、ガラガラとドアが開く音がした。視線をそちらに向けると、クラス委員長の松永くんがいた。
 松永くんはロッカーからちりとりを取ってごみの前でしゃがんだ。
「ほら、手伝ってあげるからはやくほうきで掃いてよ」
 彼は呆然としているわたしを見上げて、そう言った。
「あ、うん……」
 松永くんは表情を変えず、無言のまま掃除を手伝ってくれた。
 掃除を終えて、わたしは松永くんに訊いた。「どうして手伝ってくれたの?」と。
「困っている人を助けるのは当たり前だろ」
 ぽかんとしてしまった。 
 初めてクラスの人に助けてもらった。深い霧のなかをさまよっていたわたしに、一筋の光が射したような気分だった。
 こんな敵役にも味方してくれる人がいるんだ……。
 それから松永くんは掃除当番を一緒にやってくれた。いやだった掃除当番でも松永くんが一緒にいてくれたから辛くなかった。むしろ学校にいるなかで当番の時間になるのが待ち遠しかった。
 松永くんといるとうまく話せなくて、彼の顔を見ると頬が赤くなっていくのがわかる。気づいたら松永くんに惚れていた。もっともっと松永くんという光に触れてみたい。
 ――だけどその光は、瞬間に消えた。
 昼休み、教室に入ろうとしたとき、教室内から声が聞こえてわたしはドアに手をかけた状態で立ち止まった。
「おい松永、なんであんな外人と一緒に掃除当番やってんだよ」
 ドキンとした。
 廊下にいるので教室内の光景がどうなっているかわからないが想像はできる。おそらくわたしをいじめる数人の男の子が松永くんを囲んでいるに違いない。
 松永くんが掃除当番を手伝ってくれることで、クラスからのけ者にされてしまうという最悪な出来事を想像した。
 敵に味方する裏切り者は処断されるんだ……。
 クラスの人たちか、わたしか、松永くんはどちらをとるかといえば、クラスをとるだろう。もう松永くんが掃除当番手伝ってくれなくなる。たったひとりの味方がいなくなってしまう。
 ――でも、もしかしたら松永くんはわたしをとってくれるかもしれない。
 困ってる人を助けるのは当たり前と、平然とした顔で言ってくれたじゃないか。彼は正義感の強い人だ。だからクラス委員長にも選ばれた。
 心の底で淡い期待を抱いていた。いたけど――
「先生に面倒見ろって頼まれたからだよ。でなきゃあんな外人と居残って掃除当番なんてやりたくない」
 その言葉に、わたしは耳を疑った。
 ……外人? それってわたしのこと?
「クラス委員長も大変なんだぜ。通知表の評価あげるためには仕方ないけどさ。俺、親に私立の中学受験しろって言われてるし。まあ外人と掃除当番してるだけで評価あがるなら楽だけどね」
 どっと笑いがおきた。
 ……嘘でしょ? 
 ああそうだ。松永くんはクラスの人たちと調子を合わせるために嘘ついたんだよね。じゃあしょうがない。嘘つかなきゃ松永くんまでいじめられちゃうもんね……。
 わかってる。わかってるのに……なんでめまいがするの。
 頭がぐらぐらして平衡感覚を失いそうになる。全身が震えはじめ自分の腕で自分を抱いた。まぶたの裏が熱くなった。涙なんか流す必要ないのに、溢れて止まらない。
 お母さんに相談してもだめだった。あんな激昂したお母さんを見るのはもう嫌だ。
 担任の先生の力をこれ以上借りるといじめもひどくなる。
 松永くんは初めから味方じゃなかった。
 結局、わたしはひとりだ。
 ――だから自分が強くなるしかなかった。

「いやな夢見せないでよ……」
 最悪な目覚めだった。

   6

 文化祭の日が近づくにつれて学校中が騒がしくなってきた。うちのクラスも文化祭に向けて着々と準備しつつある。クラスの人たちは笑いながらお化け屋敷の小道具を作ってる。わたしは距離を置いてそんな姿を見ていた。
 わたしの目の前で朝倉さんが女の子たちとお化けの衣装合わせをしていた。朝倉さんは黒いマントを着こんで「血を吸ってやる〜」なんて女の子を脅してふざけている。ドラキュラのつもりだろうか。
 不意に朝倉さんと目が合った。こちらに近づいてくる。
 嫌な予感がした。
「ね、やっぱり綾瀬さんがドラキュラやってよ。金髪のほうが迫力あるし、あなたの顔っていつもムスッとしてるから怖いしさ。わたしより断然似合ってるよ」
 くすくすと、後ろで女の子たちが笑う声が聞こえた。
 朝倉さんはマントを脱いでわたしに渡そうとしたが、わたしは突っぱねた。
「ほらほら、着てみなって」
 朝倉さんは不敵な笑みを浮かべ、今度はわたしの後ろに回って無理やり着せようとする。
「やめて……!」
 わたしは力を込めて朝倉さんを振りほどいた。
 ドン、と鈍い音がした。力を入れすぎたせいか、朝倉さんを後ろの壁にぶつけてしまった。
「いったいなぁ……!」
 朝倉さんが背中をさすっていると女の子たちが朝倉さんに近づいてきて、ギロッと鋭い目つきで睨んでくる。
 壁にぶつけたのは悪いかもしれないけど……ふざけてきたのはそっちじゃない。
 一応、謝ろうと思った。けど謝る前に、朝倉さんに言われた。
「エセ外人のくせに」
 憎しみを込めたような言い方だった。
 朝倉さんたちは無言でわたしから離れていく。
 せいせいする。早くわたしの視界から消えて欲しい。
 いじめられるのは慣れた。ひとりだからここまで強くなれた。外人とバカにされたって悔しくなんてないもの……。

   7

 一日ごとにお化けの衣装や舞台のセットなど出来上がっていき、文化祭三日前にはお化け屋敷はほぼ完成していた。
 家に帰って自分の部屋でゆったりしているといつものようにユウキから電話がかかってきた。わたしは飛びつくように電話を取った。
 ユウキは本当に幽霊なのかと思うほど温かみを帯びた声をしていた。彼の声を聞くとホッとする。
 話題は最近のお笑い芸人から、文化祭の話に変わっていた。
「エリのクラスは文化祭で何やるの?」
「わたしのところはお化け屋敷だよ。見た感じぜんぜん怖くないけど」
「怖くないお化け屋敷か。それもおもしろそうじゃん」
「どうだろ。よくわかんない」
 朝倉さんとの一件で、あまりお化け屋敷のことは思い出したくなかった。
「文化祭か……。実はさ、自分の高校の文化祭に先週行ってきたんだ。僕のクラスはお好み焼き屋やっててさ、すげー繁盛してた。僕、幽霊だからみんなに気づかれないけどさ。側にいて見ているだけしかできなかったよ」
 あははは、と電話越しにユウキの乾いた自嘲が聞こえる。
「友達の肩を叩こうとしても抜けるように触れられなくて、大声出しても誰も気づいてくれなかった。友達が笑いあってる姿見てると、胸が苦しくなってさ……いかなきゃよかった。ひとりでいると辛くてさ」
 ユウキが愚痴を言うのは珍しいことだった。幽霊になって、ひとりでいるのは辛いことなんだろう。
「ひとりでいることなんて慣れちゃえば平気だよ。わたしは小さい頃からいじめられていつもひとりだったけど、いまじゃぜんぜん辛くないよ」
「本当に? ……僕は無理だ。ひとりでいることにきっとこれからも慣れないと思う」
「どうして?」
「いままでの人生でたくさんの人に触れすぎた。つながりが多かったんだよ。だけどそのつながり全部切れちゃったからやっぱ寂しい。エリは本当にひとりでいることは平気なの?」
「……平気だよ」
 強くなったもの。ひとりでお弁当食べれるし、わからなかった問題は教科書を調べて自力で解ける。
 わたし、強くなったよ。ひとりで平気だもん……。
「……エリ、お願いがあるんだけどいいかな?」
 かしこまったようにユウキは言う。
「エリの高校の文化祭に行きたいんだ。エリさえよかったら僕を連れて行ってくれないか?」
 突然のお願いにわたしは目をぱちぱちさせた。
「冗談はよしてよ。そもそもユウキは幽霊で誰にも見えないんでしょ。当然わたしだって見えないはずだよ」
「いや、エリなら僕の姿が見えるかもしれない。いままで誰ともつながらなかったケイタイで、唯一エリとつながれたんだ。会ってみようと思わない?」
「…………」
 どうしよう。
 ユウキと会いたい気持ちはある。幽霊とか関係なくて、ただ純粋に会いたい。ユウキと一緒に文化祭をめぐれたらきっと楽しい。
 でも。
 ――あんな外人と居残って掃除当番なんてやりたかない。
 内心は怯えている。松永くんが仮面をかぶっていたように、ユウキがわたしと会って心の片隅で『外人』だとあざけ笑うんじゃないかと思うと、すごく怖い……。
「やっぱりまだ僕が幽霊だと信じてくれない?」
「違う! そうじゃなくて……、ユウキと会うのが怖いの。電話越しのあなたは優しくて、面白くて、いい話し相手だけど、わたしの姿見ると偏見視されるんじゃないかと思って……」
「エリがハーフだからか? そんなこと言ったら僕なんて幽霊だよ。僕のほうが偏見視されそうで怖いよ」
 わたしの悩みを吹き飛ばすようにユウキは笑った。
「僕さ、ずっとひとりだったんだ。子供が親とはぐれて迷子になっても、泣きわめけば誰かしらに気づいて助けてもらえる。けど僕がどれだけわめこうが叫ぼうが誰も助けに来てくれない。これからもずっとひとりだと思ってた。そんなときにエリとつながれた。つながり全て切れてもう誰ともつながれないと思っていたから嬉しかったよ、神様に何度感謝したかわからない。なあエリ、ハーフとか幽霊とか気にしないよ。心からエリに会いたいんだ」
「本当にわたしなんかでいいの……?」
「ああ。連れてってよ、文化祭」
「……うん」

   8

 明日は文化祭。ユウキとの待ち合わせ場所はうちの高校から歩いて二十分ほどの駅のロータリーで、時間は九時集合だ。ユウキがいまいる場所から一時間ぐらいで来れるそうだ。
 何をするわけでもなく自分の部屋のベッドにうずくまりながら天井を見上げ、ユウキの姿を想像していた。
 わたしが想像するユウキは背が高いほうで、寛容そうな瞳をしていて、にっこり微笑むときっと小さな太陽みたいな感じ。幽霊ってのがちょっと気がかりだけど、不思議とわたしは彼が見えそうな気がする。根拠はないけど。
 晩ごはんができた、とお母さんに呼ばれリビングに行く。テーブルを見ると今晩はチーズハンバーグだった。わたしの大好きなおかずだ。
 わたしがイスに座ると、対面に母が座った。
「いただきます」と二人。
 幼い頃からわたしはお母さんと一緒に晩ごはんを食べている。この瞬間が一日のうちで一番、お母さんがわたしとコミュニケーションを取る時間といってもいい。
「ごめんねエリ。明日の文化祭、用事があって行けなくて……」
「気にしなくていいよ。それにわたしだってもう子供じゃないんだから。家族が友達に見られるのもちょっと恥ずかしい」
「なにそれ、私が若くなくておばさんだから見せたくないってこと?」
 お母さんは口をとがらせて拗ねたように言うのでちょっと笑ってしまった。
「違うよ。いつまでも保護者扱いされるのがいやなの。そういう年頃なんだよ」
 チーズハンバーグを箸で切り込むと断片から肉汁が溢れるように出てきて、とろりとチーズが伸びる。口に運んで確信した。やっぱりお母さんのチーズハンバーグは最高だ! 
 いつになく食欲が増していた。サラダ、ご飯、お味噌汁と次々と食べていく。口にしたものどれもおいしかった。
「お母さん、ご飯おかわり」
 はい、とお茶碗を渡す。
「あら。珍しいわねエリがおかわりだなんて。なにかいいことでもあったの?」
「どうしてそう思うの?」
「顔がほころんでるから」
 ほら、と白いごはんで山盛りになったお茶碗を渡された。
「明日の文化祭が楽しみなだけだよ。あとチーズハンバーグがおいしいから」
「なにその付け足したみたいな言い方。どうせチーズハンバーグはついでなのね」
「違うよ。ホントおいしいよ」
 二人しかいないリビングの空間に明るい笑い声が響く。触れるもの、見るもの、いまはなんでも色鮮やかで温かく思えた。
「ねえエリ」
 とお母さんが穏やかな口調で続ける。
「私ね、エリが中学校と変わらず楽しそうな高校生活送れてて嬉しいの。あなたの高校生活の話を聞くと心から安心する。あなたはハーフだからずっといじめられてないか心配だった」
「どうしたの、急にしんみりしたこと言ってさ」
「なんか思い出しちゃってね。小学校のときエリが泣いて帰ってきたときあったでしょ。エリがハーフだからいじめられて苦しんでるの知ってすごいショックだった。エリが生まれるにお父さんと覚悟を決めたつもりだったけど、いざ冷たい現実を突きつけられると辛かった」
 お母さんが、わたしが小学生だったときの話をするのは珍しいことだった。
「……あったね。そんなことも」
「でもエリがいまたくさんの友達に囲まれている姿を思い浮かべるとやっぱりあなたを生んでよかった」
 お母さんはチーズハンバーグを口に運ぶとなんとも幸せそうな笑顔を浮かべた。
「高校生活とっても楽しいよ」
 わたしもチーズハンバーグを食べる。さっきまでおいしかったハンバーグは、一変して無機質な味がした。サラダやごはんも食べるというよりはお腹にためこむ感じだった。

 ご飯を食べ終え、自分の部屋で今日勉強した日本史のプリントをまとめていた。ホッチキスでとじようと思ったけど、肝心のホッチキスが見当たらなかった。確かお母さんの部屋にある。
 いまお母さんはお風呂に入っている。だから勝手にお母さんの部屋に入った。
 お母さんの部屋はいつも綺麗だけど、それ以上に今日は整っていた。おそらく掃除したんだろう。
 棚の引き出しを開けてホッチキスを探す。
 棚の奥の方に一枚の真っ白な画用紙を見つけた。
 なんだろ……?
 別に気にせず違う段の引き出しを開けてホッチキスを探せばいいのに、どうしてかその画用紙が気になった。
 手にとって、真っ白な面から画用紙を裏返す。
 ――見た瞬間、ぞっとした。
「これは……」
 わたしが小学校三年生のときに授業で描いた似顔絵だ。
 似顔絵のわたしは真っ黒な髪で、瞳の色は黒真珠のようだ。それはまるで日本人みたいだった。
 気分が悪くなっていく。お腹にためこんだものが逆流しそうになる。
 絵を元に戻し、逃げるように自分の部屋へと戻った。
「なんで今頃あんなものが出てくるのよ……」
 ――ああ、そうか。掃除したときにでも出てきたのか。それでお母さん、あの絵を見てわたしがいじめられていた小学生の頃を思い出したんだ。この絵は隠していたのかもしれない。わたしに見せないために、辛い過去を思い出させないために……。
 それでも晩ごはんのとき口に出してしまった。小学生の頃の話を。
 ――最悪。鮮明に記憶がよみがえってくる。
似顔絵はハッキリと語っている。わたしはハーフなんかじゃなく日本人になりたかったと。
日本人になればみんなと同じ、敵役に抜擢されることもない、ただ平穏に放課後みんなと鬼ごっこしたりかくれんぼしたりすることができる。
本来なら黄色の色鉛筆を使って髪を塗るはずなのに、黒色を使った。みんなと違う青い瞳がいやだから黒い瞳にした。
 日本人のわたし、そんな似顔絵を描いたら反発がきた。クラスのいじめっ子たちが絵にいちゃもんをつけてくる。「おまえ金髪のくせしてなんで髪が黒いんだよ」「描き直せよ外人」。
 わたしは悔しさで泣きそうになっていた。誰か助けて欲しい、ひとりでもいいからこの敵に味方してよ。
 ――助けて、松永くん。
 ガラガラとドアが開く音がした。伏せていた目を上げる。わたしを囲んでいるいじめっ子たちの隙間から――松永くんが見えた。
涙でにじんだ瞳でも松永くんだとちゃんとわかる。彼はこちらに向かってきていた。
『――あんな外人と居残って掃除当番なんてやりたかない』
 松永くんは前にそう言っていたけどあれはクラスのみんなにのけ者にされないために言った嘘。ああそうだ。本心はわたしのことを気にかけてくれてる。だからもうすぐ助けに来てくれる。
 ――でも松永くんは、何事も無かったようにわたしの横を素通りした。
 自惚れていた。松永くんは敵だった。掃除当番を手伝ってくれるのはいやいやだったんだ。成績のために彼はわたしに気にかけていた……。
 わたし、バカみたいじゃない。
「なんでいまこんなこと思い出さなきゃいけないのよ……」
 誰もわたしの味方になってくれる人はいなかった。いままでも、そしてこれからも。
 だからひとりでも生きていけるよう強くならなくちゃいけなかった。
 その日からわたしは誓ったんだ、ひとりで生きていこうと。
 外人という言葉の暴力に負けないほど鋼のような意思を持って耐えてきた。友達同士グループで下校するのを見ても心が苦しくならないようになった。
 わたし強いよ。すがるものなんていらないくらいだもの。
 誰かと関係を持っちゃえば煩わしいだけ。松永くんみたいに裏切られて傷つく事だってある。もう胸をえぐるような苦しみは味わいたくない。
『――でもいま、すがっているものない?』
「え?」
 自分の驚く声じゃない、別の声が聞こえた。
 顔を上げると――目の前に少女がいた。
 少女は金髪で、瞳が青くて、鼻が高い。
 それは小学生の頃のわたしだった。
 機械みたいに感情なく過去のわたしは続ける。
『――ユウキと知り合って、あなたは弱くなった。彼に外人と思われることが怖くなっているでしょ』
 その言葉が鋭利な刃物のようにグサリと胸に刺さった気がした。
「そ、それは……」
『ユウキと出会う前は他人に外人と思われて感情的になったとしても、すぐ冷静に処理できたのにね』
 過去のわたしの言葉は、ひとつひとつがとても冷たい。冷たさを帯びた言葉が耳に入るたび、わたしの心も冷たくなっていくような感覚を覚える。
『松永くんに裏切られてからあなた誓ったじゃない。――ひとりで生きていくって。その決意は嘘だったの?』
「嘘なんかじゃない……!」
『じゃあなんでいまユウキと一緒に文化祭に行こうとしてるの?』
「…………」
 決定的な矛盾をつきつけられて、わたしは反論できなかった。
『ひとりじゃなくなってから、余計なことで悩むようになった。ひとりでいた頃のほうがあなたは強かった』
 過去のわたしの言うことは事実だった。わたしはユウキという存在を知ってから、自分の屈強な意思がぼろぼろと弱くなっていた。ユウキから電話がこないと不安に駆られるし、彼に嫌われないよう話を合わせたこともある。友達同士で笑いながら文化祭の準備をする光景が羨ましいなんて思うようにもなった。
 ユウキとつながる前はひとりでいても平気だったのに、外人と思われても慣れていたはずなのに……。
『解決方法は簡単――またひとりになればいい』
「…………」
 突然、まるで意識を覚醒させるように、ケイタイが鳴った。
 さっきまで確かに目の前にいたはずの過去のわたしは、いなくなっていた。幻覚……だったのだろうか?
 立ち上がりケイタイのディスプレイを見る。
【00177658891】
 奇怪な番号。ユウキだと思った。
「もしもし……」
「エリ。こんばんは」
 ユウキの声は明るく弾んでいた。
「明日は文化祭だね。念のため明日の待ち合わせの確認したいんだけどいいかな?」
「……ユウキ、わたしから先にひとついいかな」
「ん、何?」
「その……あの……」
 唇がぶるぶる震えている。言うのか。言わなくちゃいけないのか……。
 ユウキと電話している最中は嫌なことも忘れられた。ニーソコタローの話をしていると時間はあっという間に過ぎていった。彼の温かくて、柔らかい喋り方が好きだった。
 けど――
「――ごめん、明日一緒に行けない」
 そう言った途端、心が冷たくなっていくような気がした。
「……どうして?」
 ユウキの声は肺からしぼりだすようだった。
「電話もこれで最後。本当にごめん、ごめんなさい……」
「どうしたんだよ急に。謝らなくていい、いいから理由を聞かせてくれよ。納得できないよ」
「自分勝手なのはわかってる。ユウキの期待を裏切ったわたしは最低だ。でも会えない。ごめんなさい。さようなら」
 耳からケイタイを離して通話を切ろうとしたその時、ユウキの言葉が携帯から響いてきた。

「僕に外人と思われるのが怖くなったのか?」

 ズキンとした。
 通話を切ろうとしていた手が止まった。
「違う!」
 大声で否定してしまったと後悔した。わたしの間抜け。
「図星だ。ムキになっているところが証明してる」
「……違う」
 ユウキは幸せな時間を運んでくる代わりに、わたしを極端に弱くした。外人と思われるのが怖くなったのは弱くなったせいだ。ユウキにすがっていたせいなんだ。敵役はね、強くなくちゃいけないんだよ。
「外人と言われても、誰にも日本人と認められなくても、平気だもの」
「違うから、それ」
 ぴしゃりと、断言した。
「エリはイギリス的な部分も、日本的な部分も、二つあるってことだ。それが綾瀬エリなんだよ」
「でもみんな日本的な部分を認めてくれない。わたしを外人だといじめるじゃない!」
「なら僕が認めてやる」
 え。
「全部含めて綾瀬エリという存在を認めてやる。でもケイタイで話しているだけじゃだめだ。君の姿を見て、感じて、触れないと認められない。だから会おう」
 電話の先にわたしを日本人でもあると認めてくれる人がいる。夢にまで見た出来事、もう二度と訪れないかもしれないチャンスをわたしの努力しだいで掴むことができる。
「……どうして……どうしてそんなに優しくしてくれるの」
「もうひとりはいやなんだ。エリと会ってニーソコタローの話でもして笑いたし、文化祭で一緒に騒ぎたいんだ。寂しい思いをするのは今日で終わりにしたい。君だけが僕の存在を認めてくれる人だから」
「………」
 困るよユウキ。わたしなんかにすがられても。
 わたしはひとりで強くなろうとしてるの。これ以上、甘い言葉で幻惑させないでよ……。
「計画通り明日の九時、駅前のロータリーで僕は待ってる。エリが来てくれると信じてるから」

   8

 秒針がカチカチと時を刻む、その音だけ耳に残っている。寝ていたのか起きていたのか、自分でもよくわからない。まどろんだ意識のなか朝を迎えた。
 寝不足のせいか気分は最悪。洗面所の冷たい水で顔を洗って意識を覚醒させる。鏡に映った自分の顔は目の下に隈ができてひどくやつれていた。
 今日は文化祭……。
 お母さんに寝不足だと悟られないように笑顔を装って家を出る。
 空は雲ひとつなく、青いキャンパスに真っ赤な太陽が輝いてる。わたしの気持ちと正反対に憎らしいほど快晴だ。絶好の文化祭日和じゃん……。
 体が重い。寝不足のせいか本調子じゃない。しかも今頃になって睡魔が襲ってきた。昨日はあれだけ眠れなかったのに。
 いつもの登校ルートを睡魔と戦いながら重い足取りで歩く。交通量の多い横断歩道を渡って、シャッターにアルバイト募集中の張り紙が張ってある本屋の脇を通る。文化祭という特別な日を感じさせないほど見慣れた光景。
 そうしてつきあたりに出て、道が左右に分かれる。わたしは一度分かれ道で立ち止まった。右に曲がると学校がある。だから真っ直ぐ何も考えずに右に曲がればいい。立ち止まる必要なんてない。
 左に曲がると駅がある。
 ――ユウキが待っている駅だ。
 腕時計の針は八時三十分を指している。待ち合わせは九時だからあと三十分後には彼がいる。 いや、もしかしたらもう着いてるかも知れない……。
 ばか。忘れないさいよ。
 わたしは右に曲がり、何度か後ろに振り向きそうになった気持ちを押し殺して、早足で学校へと向かった。
 学校の近辺まで行くと子供連れのお母さんや生徒たちが多くなり、校門に吸い込まれていくみたいに学校へと入っていく。
 校内にはたくさんの出店がでている。子供にせがまれてお母さんがたこやきを買っていた。うちの生徒の男の子がわたあめを二つ持ちながら女の子のもとへ駆け寄って、はい、とわたあめを渡していた。
 周りを見渡せば楽しいそうな雰囲気が辺りに漂っている。当たり前か、今日は年に一度しかないお祭りなんだもの。はしゃぐのは普通だ。
 わたしはこれからどうしたいんだろう。お祭り気分につられてわたあめ買って、ついでにたこ焼きも買って、有志発表の漫才やバンド演奏を楽しむ……。
 ――ひとりで?
「そう。ひとりで」
 胸に穴が開いたような気分なんてひとりでいれば忘れるもの。すぐ慣れるよ。いままでだってひとりでいれたじゃない。だからこれからもずっと――
 突然、文化祭の活気ある雰囲気に混ざるように、胸ポケットにいれてあったケイタイの着信メロディが鳴った。


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