トウキョウ科、都市類、東京

   遠藤ジョバンニ

 AM3:14。電車は動かない。そう、電車は動かないのだ。電車の流れが血液の流れのようなのか、電車とまると、東京は一気に目蓋を重くする。その短い眠りに、そこにいる人間一人ひとりがそうありたいと願う明日を描いて。

 銀座線。AM1:05。
 私はいったい、なにをやっているんだろうか。会社から無断で奪い取った休日に。いつも買わないラークのメンソールの味に、戸惑い振り回されながら、線路沿いの公園のベンチに腰を下ろしている。先刻まで走っていた電車もすべてを終えたらしい。自嘲をこらえきれない、私は鼻を鳴らした。
 今まで夢に向かって走り続けてきた。午前中は雨が降った。私の足元には大きな水溜りと、その中へぶちまかれた原稿用紙。もうかれて私の瞳は乾いた瞬きしか出来ない。
 6年前、本を出した。しかし時の流れはさっさとそれを0に帰してしまう。私は存在を隅へ隅へと追いやられ、いつしか星の終わりのように、誰にも見られることなく、こっそりと、消えた。
 夢は消えないと、思っていたかった。会社勤めを始めてからも。しかし忙しい仕事の合間を縫って自身を必死に削りだすよう書いた小説を、最愛の理解者だと思っていた妻に理解してもらえなかったことで、それは思い込みだと、悟ってしまった。いや、悟りたくなくて自分を誤魔化していた真実だったのかもしれない。
 私は、活字になりたい。紙に触れても熱くはない。しかし読むと心のうちが熱くなる。その不思議に、今どれほどの人間が感銘を受けていることだろう。
 そう思い、私は、垂れた頭を上げた。秋を孕む風に顎を撫でつけられる。線路は柵を超えればすぐそこに広がっている。その向こうに、私は何も見つけられない。
 活字になるのは、明日になってしまったな。根が生えかけている腰を上げた。東京の空は町ごとに形が決まっている。しかし。私は思う。そこから見えるものは、一人ひとり違うのではないか、と。私に、明日が来ますように。宇宙に穴を開けたようにか細い、名も知らない星に小娘のように願った。

 南北線。AM0:23。
「送っていくよ。」
 その言葉、キライ。
「大丈夫。」
 次の言葉は、
「女の子を一人にさせるわけにはいかないよ。」
 もううんざり。
 私は男を振り切って無理矢理電車に乗りこんだ。地下鉄のホームに、取り残される男。車両のドアは見計らったみたいにタイミングよく閉まる。そして、プラットホームにも備え付けられたドアが、もしかしたら、という男の淡い希望を戸袋へ閉じ込めた。
 いい気味。トップコートを縫った爪の向こう側に、地下のトンネルを支える柱が薄暗く見える。地下鉄に、窓は必要なのかな。
 私は私なのに。私は私という固有名詞があるのに。世界には私は私しかいないのに。いつも先に来るのは、女という事実。世界にありふれている、女という基準。わかりやすい記号ではあると思う。けど、それは1であって全てじゃない。
 揺れる電車の中。ふらふらするスカートのはしっこ。窓から反射して見える電車の中吊り広告。
『実録! そこ知れない女たち! 女脳と男脳とは? 徹底チャート付』
 ばっかみたい。男はそうやってわかって気でいるのかしら。それとも、自分の「男」を誇示し、自己満足に奔っているのかしら。
 駅に停車すると、バッグの中の携帯が震えた。取り出して、文字を追う。その差出人に、私の心臓は少し跳ねた。言葉を交換するのは久しぶり。いつもなら、ちゃかちゃか心にもないことを打ててしまえる私の指が、ボタンの上をさ迷っている。
 駅を2駅消化しても私は文面を完成させられない。やっと完成した文を気にしては、ほとんど丸々変えては戻したり、全てを消してしまったり。
 送信のボタンを押せず、一度確認した文章をまた確認し、送信のボタンを押そうとするが、やっぱり気になる。
 降りる駅がやってきて、私たちはようやく明日の過ごし方をメールでやりとりし終えた。ラメのパンプスが冴えないホームの明かりにきらめいた。安堵の中に、明日を楽しみに待つ、ちょっと幸せが混ざっている。
 電車からホームへと降り立つ。電車は最後の一仕事に気合を入れるのか、大きく空気を吐き出す。発射のベルが鳴る。電車のドアが閉まり、ホームのドアが閉まる。
「あーあ。路線、変えようかな。」
 エスカレーターから、地上に出て、新鮮な排気ガス交じりの空気を吸う。空気はからりと乾いている。明日は晴れる確信が私に生まれた。

 山手線。AM1:55。
 毎日決して自分の中に存在する細胞は同じじゃないのに、世界は刻々と変化を遂げているのに、どうしてこう毎日は繰り返されてしまうんだ。山手線も俺も、ぐるぐると無限ループを繰り広げる。俺だけなのかな、ループの中から抜け出せず同じ事をしてしまっているのは。会社に言って他の人でも出来るようなどうでもいい歯車になって仕事して、安い大衆居酒屋で最早テンプレートと化した上司の愚痴を言い合って、慰めて、お袋から来る電話にも毎回同じことしか言っていない、同じやり取りしかしていないことに気付いて。
 俺は、進化を忘れてしまったのではないか。鳥のくちばしがよりえさを捕食しやすいように変形する時間は、俺の何の時間なのだろう。
 山手線はその勤めを終えて車庫に入っていく。また明日、延々と続く同じ風景を拝むために。電車に乗りながらさっき、夢を見た。山手線が、京浜東北線を走る夢。むちゃくちゃだ。
 でも――。
 終点に辿り着きその夢から目覚めたとき、俺は名残惜しさを感じたんだ。あるべきものがあるべき場所にない快感。でも同時に沸き起こる、そんなことは絶対ないんだという、諦め。
 俺は駅を出る。家に帰って、俺も眠ろう。明日には、何かとてつもない変化が訪れることを祈って。そしてもし、何も起これないようだったらそのときは、もう一度、山手線に乗ろう。
 地球の天井を久しぶりに見た気がする。都会でも、星が見えるんだ。青白く瞬きを放ついくつかの星と、その発見に俺は喜びを見出した。
 この喜びをずっと持ち続けていたい。明日もここから空を眺めることを自分に約束した。その次も、その次の日も。

 誰かの勝手な明日の希望、夢、願望欲望。目に見えないそれでさえ、東京の電車は乗せて走る。電車が満員の時でも時折誰にも座れない席があるだろう。東京に耐えかねて真っ直ぐでいられなくなり置き去りにされた夢や思いが、その記憶を蘇らせているのかもしれない。

 それでも東京は明日を見つめ息づいている。

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