CASE:E090090900:[SIGN-ON]

   tenkyo

「死なせてやれよ」
 ぼくがそう言うと、サイオンは少しだけ顔を上げて、長く伸びた前髪の隙間から、翠の瞳を覗かせた。ぼくはサイオンのその瞳をじっと見つめ返したまま、同じ言葉を投げてやる。
「死なせてやるんだ」
「いやです」
 今度は即答だった。サイオンはまた下を向き、42時間前から微塵も休まず続けているその作業に戻った。ぼくはサイオンの顔つきを見て苦笑する。彼女のその表情が、この十七年間を通して行ってきたどんなアダプト・テストのときよりも、ずっと真面目だったからだ。
「なあ、サイオン」
 サイオンは懸命に精神を集中させている様子で、ぼくの言葉に再び振り向くことはなかった。ぼくは諦めず、懇願の思いと意地悪を半分ずつ混ぜたような声で、彼女に語りかける。真っ白い壁と真っ白い床に、ぼくの声が反響する。
「ぼくの言うことを聞くんだ」
「いやです」
「そこから離れるんだ」
「いやです」
「もう諦めたほうがいい」
「いやです」
「つらくなるだろう、そんなことを続けていても?」
「いやです」
 ぼくは溜息をついた。サイオンがこうなると、ぼくには手が付けられない。今までずっとそうだったからだ。だが、今回はそれを看過してやるわけにもいかない。もう、そういう段階に来てしまっている。
 ぼくはサイオンのすぐそばに立ち、語りかけることをやめない。
「覚えてないか、きみが後期のライフハック・アダプト・テストで試験官の右腕を粉々にしたとき、ぼくは怒ったよな。でも、それ以上にきみに注意を説いたことが、一度だけある。なんだか解るかい?」
 サイオンは答えない。
「それは、きみにペットを与えたときのことだよ。きみの感情を刺激するためのテストの一環として、ぼくが提案して、きみにウサギを与えたんだ。きみはだいぶ、あれを気に入っていたよな。名前もつけて、ずいぶん楽しそうに遊んでいたよ。ずっと一緒に居たせいで、五日と待たずに死んでしまったけどね。まあ、それは仕方のないことだが」
 サイオンは答えない。じっと下を見ている。
「問題はその後だ」
「忘れました」
 サイオンはぽつりと呟くだけで、変わらずにじっと下を見ている。
 ベッドに横たわって眼を瞑ったままの、ハクイの顔をじっと見ている。
「――忘れました」
 サイオンの両肩が、微かに震えたのを、ぼくは確かに見て取った。

■ACCESS-ALLOWED:00X0XX00X:E009090000X:〈FACT-1〉■
 サイオンがハクイと初めて会ったのは、今から数えて五年前になる。ハクイは当時まだ二十歳になりたての、意欲と活力に溢れた青年だった。ハクイはぼくのチームに配属され、主にサイオンのメディカル・チェックを担当した。
 チェックの一環として、ハクイはサイオンと積極的にカウンセリングを行った。サイオンという特殊な存在を、ぼくたちの極めて普遍的な常識だけで考えるのでなく、サイオン本人の言葉を併せて状況を見極めるべきだ、というのが彼の主張だった。その発想には一部まだ現実を知らないが故の危うさはあったが、ぼくたちは彼の意見に反対はしなかった。
 ハクイは極めて熱心に、サイオンとコンタクトを取った。体調は、感覚は、気分は、趣向は。ぼくたちのチームの中で、というより、何らかの形でサイオンに関わる者の中で、ハクイは最もサイオンと人格を触れ合わせた人間だろう。
 そのため、サイオンがハクイに対して興味を持つまで、あまり時間はかからなかった。
■〈OBJECT-FACT-1:0X0XX0X0〉■■■

「彼を死なせてやるんだ」
「いや――、です」
「もう、きみが彼の死に関して、いやだと言える権利はないんだよ。ぼくたちが知り得ている範囲だけでも、きみたちは既にプロジェクトの協定に274度違反している。それが看過されていたのは、きみがサイオンで、彼がハクイだからだ。だが、それももう終わりなんだよ」
「私は――、」
「きみの破棄は決定した」
「――…………」
 サイオンは、悲哀を隠し切れない表情で、横たわったハクイの顔をじっと見た。この数年で、サイオンの表情は実に人間的になった。皮肉なことに、サイオンのパーソナリティが本来の目的とは違う方向に進んでいく度に、彼女は本来必要とされていた人間性を取得していった。
 サイオンは、今にも崩れ落ちそうな顔つきで、しかし、ハクイの身体に両手をかざしたまま、そこから動こうとしない。サイオンの手は、ハクイの身体に触れることはなく、しかし離れることもない。その距離は、ハクイとサイオンの間に取り決めされた、一定の距離だった。平均的に、二人の“関係”は、その距離を目安に行われていた。
 あくまで、平均的に、だが。

■ACCESS-ALLOWED:00X0XX00X:E090090900X:〈FACT-2〉■
 サイオンは元々、ライフハック・プロジェクトの集大成として存在していた。先々代の局長が提唱したこのプロジェクトは、気功術を習得したチャイニーズの少女七人分の遺伝子情報をミックスした、ベース・モデルの誕生からスタートしたものだ。ベース・モデルは、気功をベースにした力によって、人体の身体的疾患、精神的疾患を治療することが可能だった。モデルを重ねていくことで、最終的に、人類の生命そのものをコントロールする――つまり、人類を従来の盲目的な延命措置から脱却させ、“患者に死期を選択させる”ことを目指す――ことが、プロジェクトの目的だった。
 サイオンは、そのプロジェクトの最新のモデルとして製作された。彼女の力はそれまでのどんなモデルより優れていた。それまでのモデルが最低でも半年をかけて完成させる身体的治療技術を、サイオンは二ヶ月弱で完璧にしてみせたし、何より、それまで製作されたどんなモデルより、外見の造形が優れていた。将来的に、患者を――、生身の人間を相手にするにあたって、外見はどうあっても重視されるべきファクターだった。
■〈OBJECT-FACT-2:0X00X0X0〉■■■

「サイオン」
「やめてください」
 サイオンが、語気を荒げて、ぼくに言った。
「私は、サイオンでは、ありません。その名前で、私を呼ばないでください」
「きみの名前は、サイオンだろう。ハクイも、きみのことをそう呼んでいた」
「違います」
 サイオンはうつむきながら言った。
「この人のそれと、あなたたちのそれは、違います」
「そんなつもりはない」
「違います」
 サイオンはまた強い声を発した。だが、両手も視線も一点に定まって動かない。
「サイオン――」
「やめてください」
 サイオンは、ほぼ叫びに近い声で言った。それは今まで、彼女が一度も使ったことのない発生方法だった。
「私は、違います、違うんです――、」
 ぼくは、実のところ、彼女が言っていることの意味を理解していた。ぼくはまた、ハクイのことを思い出した。彼は、サイオンへの言語能力の教育の中で、キョクトーの文字を彼女に紹介したことがあった。単体で意味を表すその文字を、彼女の名前の“音”に当てはめる――、そういう遊びを、ハクイはサイオンに教えていた。
「私は――、“災音”では、ありません」
 彼女は、そのときのハクイの話に、何よりも熱心に聞き入っていた。

■ACCESS-ALLOWED:00X0XX00X:E09909900X:〈FACT-3〉■
 十歳になって、サイオンは初めて能力のアダプト・テストにおいて問題を起こした。そのときの試験官は局内でも人間性が問題視されていた男で、テスト中に必要以上にサイオンに対してプレッシャーをかけていた。執拗な精神的攻撃によって過度のストレスを感じたサイオンは、本来治療に用いられる能力を加速させすぎたため、その試験官の右腕から首までにかけてを壊死させてしまった。試験官はその後、人間による治療を受け、二ヶ月ほど延命したが、そのまま死亡した。
 その事件で、ぼくたちは研究の縮小、もしくは停止を覚悟したが、予想に反して研究費用が打ち切られることはなかった。そのことで、ぼくたちは安堵しきっていた。後日、サイオンの研究成果に感銘を受けた、という旨の文書が、上院軍事委員会から送付され、そこに書かれていた、“交換条件”という名の一連の文章に、直面することになるまでは。
 費用を継続するにあたり、「サイオンの能力の研究を“攻撃的”な目的にシフトし、量産し、ウォー・フェアのための兵器として導入することを条件とする」という、その文章に。
 そのときから、彼女は人類を補助する“ライフハック・プロジェクトのサイオン”から、人類の脅威としての“ジェノサイド・プロジェクトのサイオン”へと姿を変えた。
 ハクイが局に現れ、ぼくたちのチームに参加したのは、ちょうどその二年後のことだ。
■〈OBJECT-FACT-3:0X0XXXX0〉■■■

「ハクイはきみに、そんなことを教えたかったわけじゃ――、」
「解っています」
 サイオンはぼくの言葉を遮った。
「私はこの人の言ったことのすべてを記憶して、この人の言葉のすべてについて考えました。私のすべてを創りあげたのは、この人のすべてなんです。この人を失ったら、――私には、もう何もないんです」
 それは悲しいことだ。
 サイオンにとっても、ハクイにとっても、それはとても悲しいことだ。ハクイがサイオンのために投げかけたすべての言葉は、いま、サイオンのあらゆる悲しみを引き起こすきっかけと化してしまっていた。それはとても悲しいことだが、ぼくは何よりも、ハクイの善意の結果がすべて、ぼくの予想通りとなってしまったことが、悲しくて仕方がなかった。
「そうなったら、世界には、何もないんです」
「ぼくがここにいるだろう」
「私はどこにもいません」
 サイオンの中には、ぼくのあらゆる助言に対する否定の言葉が、既に出来上がっているようだ。サイオンは、いまのぼくにとって最も適切な否定の言葉を投げつけ、ぼくの言葉を遮断する。
「私が触れるだけで、すべて消えてしまうんです。触れた瞬間に、そんなもの、最初からなかったのかと思わされるんです。すべてが簡単に消える幻想の中にいるなら、私は――、」
 サイオンの両手は、いまもハクイのすぐ近くにある。
 その指先は、彼の頬のすぐ近くで、時折、空気を撫でるように、小さく動いた。それは、乱雑極まりなく生えたシロツメクサの中から、四葉を探し出そうと躍起になっている、少女の手つきそのものだった。
「最初から、どこにもいないのと同じです」
 これまで幾度となく見つけてきた彼女の四葉は、いまこのときに限って、どこにも見当たらないようだった。

■ACCESS-ALLOWED:00X0XX00X:E090090900X:〈FACT-4〉■
 サイオンの“攻撃性”の開花は、着々と進行していった。精神的ストレスによって治療能力を攻撃的に転化してしまう彼女の性質は、彼女自身の精神に負担を与え、新たなストレスを生み出すというサイクルを完成させてしまっていた。
 サイオンは、誰の手も借りず、自分の意志にすら反して“攻撃性”を増していったが、あるとき、その成長を劇的に飛躍させた事件があった。そのきっかけが、サイオンに与えた“ペット”だ。それは、陳腐な話だが、愛玩動物を少女に与えることで、多少なりともストレスを緩和する、という試みだった。その結果は予想以上のもので、“ペット”はサイオンに精神の平穏をもたらした。
 予想外だったことは、サイオンの“攻撃性”の進行度だった。それまで、サイオンの“攻撃”は、彼女のストレスが限界に達したときにのみ発現するものだと思われていたが、そのとき、“攻撃性”は既にサイオンの意志のコントロールを離れ、無作為に彼女から発せられていた。
 彼女に与えたウサギは、彼女に気に入られたがゆえに、その無作為の“攻撃”を常に浴び続けていたため、117時間で死亡した。
 サイオンは平均で一日に2時間40分ほどの睡眠を取るが、ちょうどその睡眠から覚めたときにウサギの死骸を眼にした彼女は、それまでとは比べ物にならないほどの強大なストレスを感じ、その“攻撃性”に大いに影響を与えた。そのときから、“攻撃性”はサイオンの意志に一切縛られることなく、あらゆるものへの“無差別攻撃”として完成した。
 サイオンは、ぼくたちに軽く触れるだけで、いつでも簡単に殺すことができた。
■〈OBJECT-FACT-4:X00XX0X0〉■■■

「それは、――彼に苦痛を強制することの理由にはならないよ」
「苦痛ではありません」
 サイオンは即座に答えた。
「強制でも、ありません。これは、私達が希望していることです」
「きみが、だろう」
 ハクイとサイオンは、確かに想い合っていた。それは、誰の目にも明らかだった。被検体と技術者――、その背徳に余りある関係の中には、少なからず美徳もあったことを、ぼく自身認めざるをえない。二人の関係が少しの間でも上手くいけば、サイオンにとってそれ以上の幸福はないだろうと思えた。
「それは、きみ単体の希望からくる行為だ」
「――…………」
 サイオンは黙った。いまのぼくの言葉に対しては、否定の用意がなかったらしい。それは、サイオンがぼくの言葉を認めたということに、限りなく近いことだ。
「なぜ、そうまでしてきみは、彼に縋るんだ」
「――この人だけが、私が幻想でないことを証明してくれます」
 ハクイとサイオンは、確かに想い合っていた。
「私には、まだこの人が必要です」
「いつまでそうやって、――死者を呼び戻すつもりなんだ」
「――――……」
「いつまで、彼を生き返し続けるつもりだ」
「――永遠に」
 少なくとも、200回目の蘇生以前は、想い合っていたといえるはずだ。

■ACCESS-ALLOWED:00X0XX00X:E090090900X:〈FACT-5〉■
 そして、サイオンの何よりの能力は、“攻撃性”のその先にあった。
 ウサギの死によって発生した甚大なストレスによる“無差別攻撃”には、単純な“攻撃性”だけでない、もうひとつの可能性があった。元々、サイオンの“治療”と“攻撃”の力は、源泉は同じところにある。無差別に死を与えられるほどの強大な能力は、同じだけ強力な治療の能力にも転化できる、という可能性を、ぼくたちは発見した。
 ぼくたちがそこに気付いたとき、サイオンは既に能力を実践していた。死骸と化したウサギへ向かって、サイオンが“治療”を施すと、完全に死亡していたはずのウサギは、1時間弱で息を吹き返した。サイオンの“治療技術”が大成した瞬間だったが、それは、彼女の“攻撃性”が消失した結果ではなかった。蘇生を喜び、サイオンがウサギを抱きかかえた瞬間、ウサギは再びサイオンの“攻撃性”によって、五秒と待たず死亡した。
 それは、無尽蔵な死と無尽蔵な生をもたらす、まさしく生命そのものをコントロールすることすら可能な、彼女の能力の終着点だった。二つのプロジェクトに求められていた“サイオン”が、完成した瞬間だった。
 最初のうちは、やはり、蘇生の技術も完璧ではなかった。治療と致死の能力配分をコントロールすることに、サイオンは苦労している様子だった。ある程度有用な能力の配分をマスターするまで、サイオンはウサギを417度蘇生し、418度死亡させた。
■〈OBJECT-FACT-5:0X0000X0〉■■■

「いい加減にするんだ」
 ぼくが怒声を上げると、サイオンは身体をびくんと反応させた。だが、それでもハクイの死体から離れず、蘇生を諦めようとしない。ぼくは、彼女の姿を見ていることが、もう堪えられなくなっていた。頭の中に溢れ出した言葉が、堰を切ったようにぼくの口から流れていく。
「きみが彼の蘇生を試みてから、既に43時間経っているぞ。最初のうち、彼の蘇生が完了するまで、2時間とかからなかったはずだ。274度、そのたびに、蘇生に要する時間は長く、蘇生した彼の生命が持続する時間は短くなってきている。きみがそのことを理解していないはずがない。死には少なからず痛みを伴う。きみによって、彼は274度もその痛みを経験させられているんだ。それをまた強いることが苦痛でなくてなんだというんだ」
 サイオンはまたうつむいた。
 ぼくは言葉を続けた。
「きみたちは、確かに想い合っていた。それは、確かに認めるよ。きみたちは想い合っていたがために、お互いに触れずにいることを我慢できなかったんだろう。きみの“攻撃性”は、相手に触れてから五秒程度で致死量に達する。その五秒間だけでも、というきみたちの感情を、ぼくは否定することはしない。それが、本当にお互いの感情であるならば」
 ぼくはまだ言葉を続ける。
「これはきみにも彼ににも言っていなかったことだが、きみの蘇生技術の被検体として、ぼくたちはハクイの身体を常にモニターしていた。彼の身体は、蘇生を経るたびに、確実に衰弱していったよ。彼が立ち上がる力を失ったのは、134回目の蘇生のときだ。彼が握力を失ったのは、152回目の蘇生のときだ。彼が満足に喋ることができなくなったのは、171回目の蘇生のときだ。彼が蘇生から死亡まで、24時間を耐えることができなくなったのは、192回目の蘇生以降だ。そして、201回目の蘇生のとき、ほぼ舌を動かせなくなった彼が、きみの睡眠中に呟いたことがある。それを知っているのは、おそらくぼくだけだが――、」
 ぼくはまだ言葉を続けるつもりだった。
 ぼくはそのつもりで、喉の奥で音をつくりあげたが、それを発するべきか悩んだ。それは、サイオンの何かを、確実に破壊してしまう言葉であると、ぼくは理解していたからだ。
 だが、ぼくは言葉を続けた。
「あのとき、彼は確かに言っていたんだ」
 舌の先から、その音を、彼女に向けて放った。
「――死なせてくれ、と」
 サイオンが息を呑む音が、確かに聞こえた。
 長く伸びた前髪によって、サイオンの表情はすっかり隠れてしまった。その肩が僅かに震えだし、ふ――、という小刻みな、彼女の声が混じった空気の音が、その口元から何度か聞こえてきた。それはおそらく、噛みしめた唇の両端から漏れてくる息の音だろう。生まれて初めての生体反応に、サイオンはいま戸惑っているだろう。ぼくは彼女に、それが嗚咽と呼ばれる反応だと教えてやりたかったが、うまく言葉を発することができなかった。ぼくの身体にも、その反応が来ていたからだ。
「なぜ――」
 サイオンが言葉を発した。
 震えた呼吸を挟んで、彼女の言葉は続いた。
「なぜ私は破棄されるんですか」
「ウォー・フェアは、もう終わった」
 ぼくは奥歯を強く噛んで、震えを押さえながら言った。
「兵器としてのきみの有用性は、もう必要ない。そうなった今、きみの能力は単純に危険なだけ――、そういう判断だ」
「そうですか」
 サイオンは、両腕を下ろした。顔は、まだうつむいたままだ。
「いつ、殺されるんですか」
「殺すつもりは――、……明確に“殺せ”と言われたわけじゃない。局では、今後きみに関与しないということだ。きみは、どこかに隠遁して、新しい生活を……、匿ってくれる人間を見つけて」
「一体誰が、こんな危険なものを喜んで受け入れたがるんでしょうか」
「……きみを、好意的に受け入れてくれる人間なら――、きっと、どこかに」
「バカにしないでください」
 サイオンの声が、なぜか、明るいものに変わっていた。
「私のことを好きになってくれる人なんて」
 その顔が少しだけ持ち上げられ、表情が見えた。目元に、涙の流れた跡があった。サイオンは、その目元を拭うより先に、ハクイの身体に手を触れた。
 その指先で、確かに彼の顔を撫でた。
「この人しかいないんです」
 ぼくは、何も言うことができなくなっていた。ぼくが次の言葉を考えていると、サイオンがぼくの顔を真直ぐに見た。
 初めて見るサイオンの微笑が、ぼくに向けられていた。
「私はもう、この人を失うしかないんでしょうか」
 サイオンの言葉が、ぼくの中に空しく響いた。
 それは、とても正しい質問だった。彼女の現在と、彼女が生まれてきた意味に対しての、何より正しい質問だった。彼女は、その質問で、彼女がこれまで行ってきた蘇生と殺害のすべての是非を、ぼくに委ねた。
「……人はね」
 ぼくは、その質問に、ただ答えることしかできなかった。
「一度死んだら、もう終わりなんだ」
 サイオンが、笑んだまま、またうつむいた。ぼくは、サイオンに歩み寄り、そのすぐ隣に立った。
「きみは、ふたつほど思い違いをしている」
 ぼくの中で、ひとつの決意が起きた。
「ぼくは、きみたちの関係を概ね好意的に受け止めていたんだよ。決して、きみたちを引き離そうなどとは考えていなかった。それは、局の人間として、彼を利用しようという考えじゃなく、ぼく個人の祝福の感情だ――、それが、まずひとつ」
 その決意は、一瞬で――、サイオンの“攻撃性”の伝播より早く、ぼくの身体を巡った。
「そして、もうひとつだが――」
 ぼくは腕を伸ばした。
「きみを好意的に受け入れる人間を、ぼくは一人知っている」
 ぼくの掌が、サイオンの背中に触れた。もうひとつの掌は、サイオンの頭に触れていた。生まれたとき以来、初めて触れた彼女の身体は、見た目以上にずっと華奢で、ぼくの細腕でも簡単に持ち上げられそうだった。
 サイオンの“攻撃性”が身体に廻り出すことを、ぼくは想像した。それは約五秒で、あらゆる生命を死に至らしめるだけの量に達する。それは、これまで何百回と検証してきたことだ。
 だが、ぼくは、その五秒間の間に、確かに聞いた。
「名前を、呼んでください」
 彼女の声が、ぼくに向けて発せられるのを、確かに。
「私が嫌いな、いくつもの“サイオン”ではない音で、私を呼んでください」
「ひとつだけ、私の好きな“サイオン”があります」
「この人が考えてくれたものです」
「その音で、私を――」
 いま、何秒が経ったのか、ぼくの頭は数えることをとっくにやめていた。ぼくは眼を瞑り、サイオンの声を聞いて理解し、彼女のリクエストに応えようと、その言葉を思い描いた。
 何よりも彼女らしい、“サイオン”の音を、ぼくは思い描いた。

■ACCESS-ALLOWED:00X0XX00X:E090090900X:〈FACT-6〉■
 サイオンは、ハクイに教わったキョクトー文字の遊びを、その後頻繁に行った。彼女が遊びに用いるものは、専ら自分の名前だった。災音、裁怨、殺恩――、サイオンが作り出した“サイオン”は、どれもネガティヴの塊だった。ハクイが何度も気分のいいイメージを持つ文字を彼女に教えたが、サイオンは好んで、ネガティヴなイメージの文字を探し出し、自分の名前に当てはめた。
 だが、彼女がひとつだけ好んだ、この上なくクリーンでハッピーな、“サイオン”の文字がある。
 それは、彼女が好んで使うカップの側面に、ある朝誰かが書き込んだらしい文字だった。サイオンは一目見て、その文字を気に入り、誰が考えたものかを知りたがった。彼女は、それがハクイの文字だと信じて疑わなかったようだが、ハクイ本人がそのことについて明言することはなかった。
 その文字の主が誰なのか、その問題は、いつになっても局内の大きな謎のひとつとして、ぼくたちの話題に上がった。
■〈OBJECT-FACT-6:0X00X0X0〉■■■

「どうやらきみはもうひとつ、思い違いをしているらしい」
 ぼくは、サイオンの平均36.4度の体温を両腕で感じながら、彼女に言った。
「その名前をカップに書き込んだのは、実はぼくなんだ」
 サイオンがはっとして顔を上げるのを、ぼくは感じ取った。
 その“サイオン”は、彼女に与えるひとつの希望として、ぼくが考えたものだ。彼女が生み出されたこと、彼女が与えられた能力、彼女が行ってきたこと、彼女が行っていくべきこと、彼女に対してぼくたちが掛けた願い、そのすべてを肯定する言葉だ。
 人々に生の色彩を、人々に死の静穏を――、
「“彩穏”」
 その音が彼女に届いたことを、ぼくは願った。
 彼女の“攻撃性”は、ぼくの身体をすっかり覆っただろうと、ぼくは思った。ぼくはいま、もう既に死の中にいるのだと想像した。ハクイがこれまで幾度となく身を置いてきたその世界に、ぼくはいるのだと。ぼくがサイオンに言った言葉とは異なって、死に至るまでには、微塵の痛みも存在しなかった。サイオンに間違ったことを教えてしまったと、ぼくは後悔した。
 そして、死の風景を観察するつもりで、ぼくは眼を開けた。
 それまでと一切変わらないサイオンの姿が、ぼくを迎えた。
「サイオン――」
 ぼくは驚いて、サイオンの身体から飛び退くように離れた。
 サイオンは呆気に取られたような表情で、ぼくのことを見ている。
「どうして、ぼくは死んでいない?」
「なぜでしょう」
 サイオンは、信じられないといったような声を出して、両手で自分の顔を覆った。その隙間から、これまでに聞いたことのない気弱な声で、小さく漏らした。
「わかりません」
 彼女はまたさっきのような、嗚咽に似た声を漏らした。引きつった吸気の微かな音を、彼女は連続して発した。時折、はっきりと聞こえてくる彼女の声は、笑っているようにも、泣いているようにも聞こえた。その両手が顔を覆ってしまっているので、ぼくにはそれがどちらなのか、判別がつかなかった。
「わかりません」
 ふたつの感情を同時に手に入れた彼女にも、いま自分が笑っているのか泣いているのか、まだ区別がつかないだろう。

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