優しいシガラミ

   ヨコチ

 それは寒い寒い冬の夜のことだったと思う。
 日にちまでは覚えていないけれど、二月だというのに風は刺さるように冷え切っていて、着込んだ洋服の上からでも容赦なく冷気は浸入して体温を奪っていった。
とにかく、家に帰って早く熱いお風呂に入りたいと思ったことだけは良く覚えている。
 ようやくゼミの飲み会から開放されて、いつものように自転車を停めている駐輪場から出た。
 駐輪場は駅から伸びる複数の路線を渡るために作られた「大希橋」という巨大な陸橋と駅の中を繋ぐようにして作られていて、ちょうど橋の頂点にあたる部分にその駐輪場入り口が設置されている。
遮るものの無い高所に吹く風はいっそう冷え冷えとしていた。
 首に巻いたマフラーをたくし上げ口元を覆い、ニット帽を鞄から取り出して被る。
 女として如何なものかというような色気の無い格好だったけど、避けては通れない下り坂での向かい風は、そんなことを気にしている余裕すら吹き飛ばすのだ。
 いや、本当に。過去にニットを忘れたときは耳が千切れるかと思ったほどだ。両手を離し耳を保護するわけにもいかず、まさに生き地獄の生殺しだった。
 そしてそれは覚悟を決め、さぁとペダルを踏み出そうとした瞬間だった。
 前方に、一人佇む人がいた。眼下の景色を見下ろすように。
 それだけならコレといって目に留まるようなことじゃない。一応、教育者目指してはいるけれど、注意をするような立場ではないし、そんな事をする様な義理も無い。
 そういった理由抜きで、あたしの視線はその人に釘付けになった。
 行為でもなく時間でもない。その人物が抱えている問題、あたしの目に留まった理由。それはその人の佇んでいる場所だった。


「あのぅ、菊子さん、あたしのお話聞いてます?」
 少しかしこまった感じで相手に質問を投げかける。もちろん嫌味だ。質問の相手である菅沼菊子はうなだれるように頭を垂れて、氷が溶けて薄くなったお酒の入ったグラスを、肘を付いたテーブルの上に掲げている。
『bar under ground』。なんとも安直なネーミングをされたバーのカウンターにはあたしと菊子しか座っていない。
 不規則な動きで揺れるグラスに入った琥珀色のお酒が、薄暗い店内に合った淡い照明に当たって柔らかく光る。
「はいはーい。聞いてますよー、左藤美貴さん。それで、今回はどんな御用向きで?」
 案の定まったく話を聞いていない。しかも同じ口調で返された。あたしは虚しさを感じて少し大げさにため息を吐き出した。
「だから、ちょっと相談ごとに来たってさっきから言ってるでしょ菊子。まったく、人の話を聞くときにお酒なんて飲まないでよ」
 あたしの言葉に反応して菊子が顔を上げる。眼鏡越しに薄くなり、どこか眠そうな瞳がこちらを鬱陶しそうに捉えた。
 ふらふらと揺れる頭に合わせて切りそろえられた綺麗な黒髪が流れる。
「馬鹿言わないで。バーに来たらお酒を飲むの。喫煙所にいけばタバコを吸う。レストランに行ったら食事をする。当然のことでしょ?」
 そういって彼女はぐいっとグラスに残ったお酒を飲み干し、さも当然のように「御代わりくださーい」とバーテンさんに御代わりを注文した。
「それはそうだけど、飲むお酒とペースを考えなさいよ、この酔っ払い。アルコール度数いくらだと思ってんのそのお酒」
「なによ聞き捨てならないわね、美貴。誰が酔っ払ってるって言うのよ。私は全ッ然酔っ払ってなんかないわー」
 「酔っ払いしかそんな台詞吐かないわよ。いつもは語尾なんて伸ばさないくせに」
 ちなみに、彼女が飲んでいるのはロンリコ151というラム酒の一種で、そのアルコール度数は70を超える。
 とりあえず人と会話をする前に飲むようなお酒ではない。既に御代わりは四杯目に突入しており、お酒を作っているバーテンさんもさすがに心配顔だ。二杯目からライムを搾ってるあたりに彼の優しさが見て取れる。
「とにかく、話を続けるけどいい?」
 彼女は四杯目に口を付け始めたが、こうなってはもう止まらないだろうと諦めることにした。
 「いいですよー。確か、何かとても心に引っかかる事があって、なんでも、気になりだしたのは最近の事でー、でも何でそれが気になってるのかはっきり分からないとか。こんな感じでいいのかしら」
「……ハイ、正解。大したものね。ひょっとしていつもこんな感じで仕事してるの?」
「そんな訳ないでしょう。ちゃんと場所は借りて営業してる。ほら、あるでしょどこにでも。占いの館みたいなもの」
 お客をリラックスさせるために使うときはあるけどね、と悪戯っぽく舌を出す菊子。
「可愛くないし、似合ってないわよ、ソレ」
しかも結局飲んでるじゃないか。
 会話から出てきた単語のように彼女の職業は占い師だ。
 今では人は次々宇宙に進出し、パソコンがあれば世界中と繋がることができる。そこまで科学が発展し自然界の謎が薄皮を剥がすように明らかになっていく現在でも、こうした曖昧な職業が成り立っているのは驚きだ。
 彼女に言わせれば「結局、古今東西、人は見えないモノを捨てきれないのよ」だそうで、景気はそこまで悪くはないそうである。
 よく分からなかったけれど、それは俗に絆とか縁、もしくは未来なんてものなんだろうか。どちらにしろ生きるだけで精一杯のあたしには考えるだけ無駄だ。
 気を取り直して話を続ける。
「とにかく、さっきの続きを話させてよ。何が気になってるか分からなくちゃ、どうして気になってるのか分からないでしょ」
 そう言った矢先、目の前に菊子の腕が伸びてきた。彼女はその手であたしの口を覆う。両側から頬をつかまれ口がアヒルのようにすぼめられた。
「ひゃにひゅんにょよ!」
 すぼまった口のせいでうまくものを言えない。ちなみに今のは「何すんのよ!」と言ったつもりだった。
「……いいわぁ、言わなくても。別にあんたが何に関心を持っていようと、私が〈観る〉モノは変わらないもの。どうせ観えちゃうし。それに何と言うか、あんたの口からは聞きたくない」
 言い終わった途端、彼女は目を伏せる。その表情は憂いに似たようなものを帯びていた。なまじ造りの良い顔をしているせいでそんな表情をしている菊子には、女のあたしでもそそられる・・・・・ものがあった。
 友人の頬を鷲掴みにしている以外のシーンならさぞさまになっただろう。
 しかしそんなことは関係無しに、あたしは菊子の手を少し乱暴に払いのける。
「何で口を掴むのよ! 言えば済む話だったでしょ。そんな顔しても許さないひゃよ、ひふこ!」
 別に噛んだわけじゃない。途中で菊子に両方の頬を引き伸ばされたのだ。掴まれた頬はお餅をこねる様に弄ばれる。
「あはは、おもしろ〜い」
 ちっとも面白くないあたしはその手を叩き落とす。
「止めろ、この変人! あんたやっぱり酔ってるんでしょ!?」
「まぁまぁこれでも飲んで落ち着きなさいよ」
 言いながら菊子が自分の飲んでいたお酒を差し出す。この女、巻き込む気だ。
「要らないわよそんな劇物」
「そう、おいしいのに」
 菊子は琥珀色のお酒を口にした。少し口に含み、舌で転がすように味わう。十分に堪能してそれを喉の奥に下し、小さく息を吐はいた。
「まぁ、今のお遊びは依頼料って事で水に流しなさい。運が良いわね。高いのよ、私の占い。それはもうべらぼうにね」
 再びおどけたように舌を出した。可愛くないって言ってんだろ。
「大学時代からそうだけど、あんたと飲むとこうなるから嫌なのよ」
 大学時代から彼女は飲みだすと絡んでくる。その標的はいつでもあたしだった。飲み会からW解放Wされたという表現はあながち間違いではないけど、正確には、飲み会で酔っ払ったW菊子から解放Wされた、といったほうが正しい。
深く息を吐く音が聞こえた。…………悲しいことにあたしのため息だった。
 そんなあたしを見て菊子は薄く笑い。そしてその表情を平坦にする。
「さて、いい感じに緊張がほぐれたからそろそろ始めましょうか。あまり気分の良いものじゃないから、さっさと終わらせて飲みなおしましょう」
「う……うん。よろしくお願いします」
 思わず気後れしてしまう。
 きっとこれが、彼女の仕事モードの顔なのだ。
 一重まぶたの切れ長な目は、真面目な表情になると一層その鋭さを増して、眼鏡を通しても刺さるようだ。初対面の人は言わずもがな、先ほどのおどけた様子を見た後でなかったら、あたしも中々に緊張してたかもしれない。
「それで、あたしはどうすればいいの?」
「特に何も、少しの間こっちを向いてじっとしていれば問題ないわ」
 菊子は体を動かし、こちらに向かうような形で座った。それに習いあたしも体を彼女に向ける。
「じっとしていて。あぁ、目を逸らしてもダメよ」
 念を押すようにもう一度彼女は言った。言われた通りとまでは行かないだろうけれど、それに努めることにした。また口を掴まれちゃたまらない。
 何か特別なことをされるのかと思っていたけど、実際は普段より少しだけ見開かれた瞳がこちらを捉えるだけ。その瞳がじっと、ただこちらを見みるだけだった。
 逸らすなと念を押されたため、どうしても意識は菊子の瞳に向かう。
 均整のとれた美しい瞳だと思った。水晶のように透き通った印象の白に、やや渋みのある茶色。そしてその中心に穿たれたような黒が全体のバランスを引き締める。
 もう菊子の表情は見えていなかった。いつの間にか一切の意識が彼女の瞳に向かっていた。
より多くの情報を捉えるためか、彼女の瞳の中の瞳孔が開かれる。こちらの意識はさらにそこに集中する。
 澱み無くどこまでも純粋な黒。
 深く深く、底の見えないその瞳の中に引き込まれるような錯覚。闇夜の海に、星の無い空に、先の見えない暗闇に感じるような逃れがたい引力を感じた。
 あたしの意識は宙に、身体から浮かび上がり分離する。曖昧になったあたしの中身が一気に 外界との境界線を無くす。
 その一切合切が宙を漂い彼女の瞳に、さながらブラックホールに引き込まれる星屑のように吸収され――――読み取られる。
 所詮は錯覚だと意識していても、一体感とでも言うのだろうか、自我は既に溶解して曖昧になった。
 そもそもあたしはどこにいて、何者で、何をもって私として存在していたのか思い出せない。
…………・;私? 私とは一体誰のことだろうか。希薄な自我は当たり前だったことが当たり前のように以前のことを思い出せない。
 辺りは目を閉じたように真っ暗だ。宙に漂う霞のような浮遊感は快感を伴い私を陶酔させる。所在の明らかで無くなった身体はただただ心地よく、何もかもがどうでも良くなってきた。
 私が私だった頃を思い出す労力が惜しい。過去がくだらない。心地よい今がいつまでも続いてくれたらどれほど幸せか――――
「はい、もうお終い。寝ぼけてないでさっさと起きる」
 小さな手を叩く音と菊子の声がした。途端に足は地に着いて、身体と意識は元に戻る。
 見回せばそこはもといたバーのカウンターで、あたしは椅子の背もたれに体を預け、だらりと両腕を垂らした状態になっていた。正直、かなりだらしない。
「……ん……終わり? あれ、あたし・・・どれ位こうしてたの?」
「五分くらいよ。ささ、飲みなおしましょう! 嫌なことはお終いお終い。こっちは気分の悪いことさせられて疲れたの。やっぱり友達なんて〈観る〉もんじゃないわね。まあ、あんたは昔と変わらず大して見るものはなかったけど」
 観る? お終い? ああ、そうか。そういえばあたしは菊子に〈観て〉もらいに来たんだった。どうにも記憶がすっきりしない。
「失礼な。それじゃああたしが成長してない、中身が空っぽの人間見たいじゃない」
「あら、褒めてるのよ? それが貴女の唯一の美点でしょうに」
 そういって菊子はあたしに新しいグラスを差し出す。注がれたお酒は先ほど彼女が飲んでいたものに似ていた。
「いやいやいや、菊子。まだ飲むわけにはいかないわ。終わりじゃないでしょ。占ったんでしょ? なにか分かったなら、それれに対してのアドバイス的なものは?」
 そう言ってグラスを押し返す。話は理性のある内に聞いておかなければ。
 押し返されたグラスに菊子は顔をしかめる。なにを野暮なこと言っているのだこの女はとでも言いたいのだろうか。
「毎回言うのも飽きたわね。私の職業は一応占い師となってるけど、私がするのは占いではないわ。その人を〈観る〉だけよ。その人の本質、性格なんかを観るの。それに現在の心境、状況、関心事なんかを鑑みて予測される今後を教えてあげたり、現状を打破する、本人にも気付かないようなことをアドバイスしてあげるだけ」
 長々と説明する菊子はそういってグラスに口をつける。口を離した途端顔をしかめて不味そうな顔をした。
「やっぱり、自分の仕事の話をしながら飲む酒は美味しくないわね」
「それは良いとして」
「良くないわよ」
「観終わった後で、あんたからあたしに与えられるアドバイスは?」
「無いわ。処置無しね。」
 即答で断定だった。
「あんたの関心事は私の手に負えないわ。あんた自身の問題すぎてどうしようもないのよ。〈観た〉限りでは、ある情景が心に残っていて、最近それが気になってしょうがない。でも何故それが気になっているのか分からない、ってところでしょ?」
「正解よ。でもそれ大体最初にあたしが言ったことと同じじゃない。このペテン師。どうせその情景もどんなものか理解してるんでしょ。それとあたしを結び付けて、あたしがどう対処したら良いかくらい教えてよ。依頼料返せ」
「ペテン師とは失礼な。これでも財界の大物とか顧客に持ってる売れっ子なのよ、私。…………でもそうね、たしかに何か言っておかないと、格好が付かないか」
 菊子は顎のところに人差し指を添える。考えるときの彼女の癖だ。
「そうねぇ、あえて何か助言をするとしたら、現場に行ってみなさいってことくらいかしら」
「えーっと、毎日通ってるんですけど……」
「それなら後は簡単ね。その場所で起きたことを、その場所で再現してみればいい。その情景の中の・・;少年は何を思ったのか。そしてそれを見たあんたがどう感じたのか。それをゆっくり考えればいい。どうせ突然のこと過ぎて、気持ちの整理を付けないまま日常に埋没させたのが原因よ」
 売れっ子というのはあながち間違いではないらしい。先ほどの話であたしは一言もW少年Wなどとは言っていない。要するに、しっかりと〈観ら〉れていたのだ。
 しかし今、聞き捨てならない事を言われたのもまた事実。
「起きたことを再現って、菊子、それ本気で言ってるの?」
「やるやらないの選択はそっちの自由よ。ただ、私にはそれ以外の解決策が見つからないだけ」
 さあさあ飲みましょう、とグラスを再び差し出す菊子。その目には面白くない話はコレでお終いとでも言うような色が浮かんでいた。
「でも菊子――」
「ん……」
 口答えするなとでも言うように彼女はグラスを口元まで突き出す。これ以上、このことに関して話す気はないようだ。
 酒癖も、こういう頑固なところも、何だかんだでアドバイスをくれる優しいところも大学時代から変わっていない。
 仕方なくあたしは突き出されたグラスを手に取り彼女と乾杯をする。それは大学時代から決まっていた一気飲みの合図だ。
 あたしは琥珀色のお酒を喉の奥に流し込む。
 絶対に、後悔すると知りながら。焼けるような喉の感覚と共に、溶けるような陶酔がやってきた。

**

 少年が立っていたのはフェンスだった。落下防止用に陸橋に設えられたフェンス。その上に、さも当然のように彼は立っていた。
 運動音痴のあたしからすればそれは神がかったバランスで、彼はフェンスの上に直立していた。平然と、やや余裕のある笑みを浮かべながら、眼下の景色を見下ろす。
 多分、声をかけるべきだったのだと思う。しかしそれができなかった。突然の出来事に身体が硬直していたのもある。
 でもそれ以上に、もし声を掛けたことで彼の注意がこちらに向いてしまった時、そのバランスを崩してしまったらと思うと、声を掛けることなんてとてもできなかった。
 やがて彼はゆっくりとその両手を広げる。さながら空に羽ばたこうとする鳥がその両翼を広げるように。視界に移る景色が、その緩慢な動作につられるようにスローモーションになった気がした。
 やがて音が聞こえ始める。駅から発車した電車が次第に速度を上げ、線路を叩くような音が聞こえ始める。
 依然として少年の顔は穏やかで、とてもこれから起こるであろう出来事の主人公には見えなかった。
 音が近づいてくる。その電車はこの陸橋の下をくぐるのだ。分かっていても、あたしは声を掛けることができなかった。
 目の前の少年の重心が前方に移動したことが分かっても、少年が電車を待っていたことを理解しても、その二つの事実を結んで、そこから起こる出来事を簡単に予測できても、あたしは声を掛けることができなかった。
 少年の身体が宙に浮く。着ていたコートが風を受け翻った。そこまでいって、あたしは声を出したのだ。
「あ…………」
 短く、間の抜けた声だったと思う。自分でも笑ってしまうくらい場違いな声だった。
 その瞬間に少年がこちらに顔を向けた。綺麗な横顔で、見た限りではっ中学生くらいだっただろうか。呆けていた割には良く覚えている。
 その時、確かに彼と目が合った。見間違いでも勘違いでもなく、数瞬だったけれど確実に視線は交わった。
 それは寒い寒い、冬の日の出来事だった。
 ほんの少しの間しか見ることのできなかった、その少年の顔には――――。

***

「……あーったま痛い……うー…………き、気持ち悪い」
 結局、菊子に付き合わされてしこたま飲んでしまった。三杯目からの記憶が無い。
 やっと意識がはっきりとしだした頃には、既にあたしは駐輪場にいた。習慣って恐ろしいな。 いや、この場合素晴らしいのか。
 まさに前後不覚。記憶がふっ飛ぶくらい酔っ払っていても、こうして毎日のように利用しているここにたどり着くことができた。
 携帯電話の時計を見れば既に時刻は零時七分。新宿で菊子と飲み始めたのが十九時半位だったから、四時間近く彼女と飲んでいたことになる。よくあのペースに合わせて生き残れたもんだ。
「サークル時代の飲み会に感謝、感謝っと」
 零時を過ぎた駐輪場に人影など無く、空っぽな空間にあたしが自転車のサイドスタンドを外す音がどこまでも響いた。
 九月も半ばになれば残暑もどこかに行ってしまい、どこからとも無く吹いて来る風は強く、ほんの少しだけ肌寒い。もうすぐ秋がやってくるのだ。
 カラカラと乾いた音を立てながら自転車を押して、いつものように駐輪場を出る。自転車にまたがろうとして、飲酒していることを思い出し諦める。
 遮るものがない陸橋の頂点に吹く風は駐輪場の中のそれより強くて、思わず着ていた薄手のコートの前を閉めた。人気の無さがより一層寒々しさを引き立てる。
 右手に目を向ければ線路があり、さらに奥には駅、そして駅前の歓楽街と景色は続く。割と栄えている街の毒々しい明かりが、離れたここからでも良く見えた。
 終電前の駅のホームにはまばらに人が待っている。はっきり見えないから分かる訳無いのだけれど、みんな疲れた顔をしてるんじゃないかとぼんやり思った。
 電車が到着して、人々が乗り込んでいく。その光景を何も考えずにぼんやり眺めた。やがて、 電車が走り出す。
 ガタンゴトン、ガタンゴトン。それが合図だった。
「……………………あ、…………忘れてた」
 不意に浮かぶ少年の姿に自分が重なる。彼が立っていたのは、今ちょうど自分が立っている位の場所じゃなかったか?
 続いて思い出したのは、バーでの菊子との会話。意識は鮮明に、身体の中のアルコールが一気に抜けていく気がした。
『それなら後は簡単ね。その場所で起きたことを、その場所で再現してみればいい。その情景の中の少年は何を思ったのか。そしてそれを見たあんたがどう感じたのか。それをゆっくり考えればいい』
 ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 音の間隔が短くなって、電車が加速する。
『やるやらないの選択はそっちの自由よ。ただ、私にはそれ以外の解決策が見つからないだけ』菊子はたしかそう言っていた。
 決断するかどうか、迷うより早く、自転車を止めて金網を掴んでいた。軋むような音を立てながらしなるのを気にせずに、足を引っ掛けて一気に上る。
 上りきり、足場というにはあまりに心もとない細さのフェンスにしがみ付いた。気を抜けばバランスを失い落下は必至だ。こんなところに両手放し、しかも直立していた少年に今更ながら感心した。
 ガタンゴトンガタンゴトン。音の間隔はさらに狭まってきた。見下ろせば、加速し、陸橋に迫る電車が見える。あと十秒も無いうちにあれはこの真下を通過するだろう。
 思考は過去に、この場から飛び降りた少年のこの世の去り際の表情に向かった。
 自分から命を投げ出した少年の表情は、静寂を守る水面の様に平静で穏やかだった。いつからかその表情が、ふとした瞬間に頭の中に浮かんで離れなくなった。
 多分あたしは、彼の考えてたことなんて興味が無い。今実際この場に立って彼が何を考えていたなんてまったく想像できないし、しようともしないあたしがいる。
 彼の思考の追跡が興味の外なら、あたしが興味を持っているのはあの時あたしが何を感じたのか、だと思う。
 菊子はここに来れば分かると言っていたけど、分かったことといえばフェンスの上に立つことが難しいことくらいだ。
 違和感はまだ感じる。電車の音で思い出した彼の顔も確かにまだ頭の中に浮かんだままだ。
 その感情がどういう種類のものなのか、きっとそこが問題なんだ。
 彼を見てあたしはどう思った? どう感じて、どうそれを処理した? 思い出そうにも彼の 表情以外の記憶は曖昧だった。
 もう一度思い出す彼の顔。世の中に心配事なんて何も無い、そう言ってしまいそうなほど穏やかな表情だった。いや、この世に何かあったから、彼はココから退場しようとしたのだ。
 つまり、あれは、えぇっと、だから、要するに――――旅立ちの顔? 彼の表情が象徴しているのは、未練の無さ、だったのだろうか。それを見てあたしに与えられた感情は――――。
 風が吹いた。それまで吹いていた風の比ではない突風だった。突然の風圧に身体が前に傾く。傾く?
 自然と前傾姿勢になり目線が迫る電車から、眼前の十メートル先にある無機質な線路に移る。
 見ただけで硬さが伝わる。簡単な未来予想。絶命の予感が身体を一気にこわばらせる。
「わ! わわ、あ、きゃぁぁァァァァ!」
 傾く重心を必死で立て直す。それでも傾いた体は元に戻らない。落ちる。そう思っただけで電気にも似た寒気が全身を駆け巡り、脳みそが必死に生存方法を探す。
 色んな物が頭の中を駆け巡った。両親の顔、友人、職場の同僚、感動失望歓喜失恋その他諸々、過去の思い出達。煌いては消えていく記憶たちはビデオの三倍速のように足早に、あたしの人生を振返らせる。
「え、走馬灯!? ふざけんじゃないわよ菊子! 死んでたまるかぁぁぁぁ!」
 見回せど辺りに人気は無い。救援は期待できなかった。
 既に傾き始めた姿勢を立て直すのはもう諦めた。それを諦めた上で、思い切って左手をフェンスから離し、両足を投げ出す。ああ、チクショウ! 菊子の奴、今度会ったら許さない! 絶対に!
 一時の浮遊感。決死の勢いで右手を支点に身体を反転させる。全身の体重が掛かることとなった右手の指たちが千切れそうになり悲鳴を上げる。
 そんなことには構っていられない。こっちは生き死にがかかっているんだ! 
 引きつりそうな右腕の痛みに耐え反転に成功。話していた左手をフェンスに伸ばす。金網をむしり取る勢いで掴んだ。足をばたばたとさせなんとか金網に引っ掛ける。
「し、死ぬかと思った。…………本ッ当に……怖かったぁ」
 そんな月並みな台詞が口から漏れる。人生で一番怖かった。断言してもいい。
 ガーッ、という音と共に真下を電車が通過した。サーッ、と血の気が引いて、それに急かされるように金網を上る。誓ってもいい、二度とフェンスなんか上らない。
 必死に上るあたしの顔は、さぞ一杯一杯で人には見せられないものだっただろう。降りてそのままフェンスに寄りかかるように、地面にへたり込んだ。
「はあああぁぁぁぁぁぁァァァァァァァ…………」一生分かと思うくらい長いため息が出る。 心音が耳の奥で響いている。
 試練に耐えた右手を見れば皮が剥けて汗でびっしょり。強風に撫でられた髪はボサボサ。買ったばかりのコートはしわだらけだ。
「…………でも、生きてる……」口にして、ようやく実感がわいてきた。コレが生きるって事 ならかなり醜いもんだな、そう感じた。
 あの少年は清々しいまでにコレを棄てたのか。何の躊躇いも、未練も、そしてきっと後悔も無くこのフェンスの上から身を投げたんだ。
 がむしゃらに掴み取った生を実感して改めて、彼のことを考えてみる。
「………………そっか、あたし……………………羨ましかったのか」
 羨望。答えが出てしまえば、なんとも明解な感情だ。
 あたしは生きていたい。卒業した中学校に赴任してまだ担任ももらってない。結婚もしたいし、三人くらい子どもも欲しい。週末は今日みたいに友人と飲みに行きたいし。美味しいものもまだまだ食べたい。
 きっと今死んだら、両親は大泣きするだろうし、きっと菊子も、ほかの友人も泣いてくれる、はずだ。
 そういった諸々の、柔らかい糸のようなものが全身に巻きついて、今のあたしに生きろと言っている。
 今生きている場において教頭にお尻を触られても、生意気な生徒が反抗してきても、職場の現実、あたし自身の実力のなさに落ち込んでも、それらのシガラミがあたしに生きろと言い、あたしはそれらを糧に生きている。
 贅沢な話だけれど、疲弊した心がそれをW重いWと感じてしまったのかもしれない。何という罰当たりか。
 きっと少年にはそれが無かったのだ。だからあんなに清々しく、堂々と空を飛べた。自分とはまったく対極で、それだから気付かなかったのかもしれない。
 もともと、自分から死ぬなんてW無いW考えだったし。
 その身軽さに、あたしは憧れたのだ。でも彼に憧れるということは、死に焦がれるってことだと思う。だからそれをあたしは否定して、無意識に思い出さないようにしていたのかもしれない。
 急速に得た答えに満足して、空を見る。そこには星も何も無い、塗りつぶされたように黒々とした夜空があるだけだった。
 歓楽街の騒がしい光に塗りつぶされたのだろうか。
 吸い込むような黒は、数時間前に見た菊子の瞳を思い出させる。まるで空一面に広がった彼女の瞳が、あたしを監視しているみたいで気分が悪い。
「ハイハイ、言われなくても生きますよ」そう言って短く、ため息を吐いた。きっと彼女はこ うなることを見越していたのだろう。
 金網を支えに起き上がる。何とか腰は抜けなかったようだ。飲酒運転で捕まらないように押しながら陸橋を降る。
 すっかり酔いのさめた頭がバーで菊子が別れ際に言ったことを思い出す。
『美貴ぃー、絶対、また飲みに行きましょうねー』
 肩を貸さなければ歩けないほどベロベロ酔っ払って、だらしなく語尾を伸ばしながら彼女は そういった。今ならそのW絶対Wという言葉の違和感も納得できる。
 ふぅ、とわざとらしくもう一回ため息を吐いた。
 彼が正しいとか間違ってるとか、あたしには分からない。それでも、関わりがあたしに生きろというなら、素直にそれに従おう。死ぬなんていつでもできるのだ。
「まったく、何て優しい――――」
 素敵なシガラミかしらね。恥ずかしいので誰にも聞こえないようにそう呟いて、家路を急いだ。

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