切断/呪詛

   鏡典

   10

 ロゼットはWordを追って施設へ侵入。薄暗く、薄気味悪い内部――まず鼻をつくのは異臭。その臭いのせいで気づくのは、見なくともその場所と意味の解る物体――死体。目を細めて臭いのするほうを見れば、壁際に倒れている二つの死体――看守のような装い。
 と、中央にはその二人が監視していたのだろう鉄格子の扉――無理矢理にこじ開けられたように、番から外れてひしゃげているその扉。
 推察――鉄格子扉をぶち破った人間と、看守二人を殺した人間――恐らくイコール。
 その推察が何を意味するのかも理解できないまま、急かされるようにWordの糸を追う。扉の奥に続く、地下への階段を降りていく。
 明かりの類が全て駄目になっているようで、その先は足元さえ見えないほどに暗くなっている。手元にあるわずかな明かり――ホルダーや携帯のそれを駆使して進もうとする。
 が、
 リィン――。
 突然の音――どこからか聞こえてきたその音がロゼットの身体に浸透する。
 音は一瞬の内に全身に渡り、ロゼットの中のあるひとつの感情に強力に働きかけてきた。
 恐怖だ。
 その瞬間で肥大化したロゼットの恐怖が壁となり、その前方を塞いだ。
 ロゼットは無視して前へ進もうとする――だが、足が動かない。
 これ以上進むのは不可能。
 ここで引き下がるのは悔しい――このすぐ先に何かがあるという予感。
 すぐそこに誰かがいるという予感。
 すぐそこで、誰かに会えるという予感。
 強力な予感――焦りに似た感情。胸が締め付けられるような違和感――呼吸以上の優先順位を持つ焦燥感。
 そういったものの全てがロゼットをその場に引き止める――だが、その感情の中の一部にある“何か”/“誰か”が、ロゼットを呼び寄せる“予感”を拒否し続けていた。
 リィン――。
 リィン――。
 リィン――。
 音――Wordが鳴らす警告の音。
 その音――ロゼットという名前が鳴らす、過去の音。
《――――また――》
 幻聴――“誰か”が打ち鳴らした過去の音。
 その音――その声。
 また無意識に指が動く。触れるのはピアス――“ロゼット”の過去の存在証明。
 そして、“ロゼット”の名を持つ“誰か”が、足を一歩後ろへ。
《後退の一歩で前方を踏む靴の裏》
 Wordが体内で弾けるような感じがした。
 その一歩で、急にその場にいることが恐ろしくなり、早足で施設から出る。異常なほど荒くなった呼吸を整え、その場からさらに遠ざかるように歩く――ひたすら歩く。
 空では少しずつ陽が傾き、薄暗くなり始めていた。
 リィン――。
 Wordは今も鳴ってロゼットを誘い込む――全て無視。
 ひたすら歩く。
 次第に感じていた恐怖が、苛立ちに変わってきていた。
 正体不明の予感への苛立ち――予感を逃したことへの苛立ち――自分の行く手を阻んだ暗闇への苛立ち――暗闇に臆して立ち止まった自分への苛立ち。
 自分自身に対しての苛立ち。
 “ロゼット”という名前に対しての苛立ち。
「――畜生」
 ふと漏らした言葉――そこへ憎悪のWordが群がってきた。
 少女が握り締めた剣の柄――そこにあるネームホルダーでは今も名前が点灯中。
 “ロゼット”。
「畜生、畜生っ」
 行き先不明の苛立ち――不安に似た衝動。
 自分の中にある全てのものが空転――何かを求めて言葉が回る。
 逃げるように。
「――ボクは……――」
 発してはならない最大の疑問が不意に口をついて出かける――全力で阻止。
「畜生っ」
 ひたすら歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。
 と、
「――知りません」
 声。
 聞き慣れたその声――アニスの声。
「戯けたことを抜かすな」
 そこに重なる声――男の声。
 聞き覚えのない声――ロゼットが不審に思ってその声の方へ。
「手前らがこれまでに二度、同じ面子で修学に出たことは解っておるでな」
「知りません」
「その面子と同じ奴が手前と別にもう一人、ここに居るのを見た。なら奴もここに居る、誰とてそう考えらな」
「知りません。解りません」
「もう一度聞くぜ、手前」
「答えられません」
「サキスケの野郎はどこだ」
「……知りません」
「やれやれだねえ。お互い礼儀は解っておるようでな。手前が――」
 と、声が、そこで不自然に途切れた。
 二人の間に割って入った剣の鞘が、その言葉を発する頬を横から殴り飛ばしたからだ。
「ねえ、何の話してるのかな」
 その鞘を持つのはロゼットだ。
「ロ、ロゼットちゃん――っ!」
 焦ったような声のアニス――ロゼットの腕を掴んで剣を下げさせる。ロゼットはアニスの前に立って男を睥睨。
 その男――全人ではない。ロゼットの倍はありそうな巨体のセレアンスロプス▼獣人――その獰猛さを理解させるのに容易い獣の風格。その腰にある刀には紋章――“ローマ=ケイトリクス全解統一学園”の意匠。
 その後ろには学生服姿の男子生徒二人。こちらは両方とも全人の少年――セレアンスロプスの少年の後ろに立って舎弟の風情。その二人がロゼットの攻撃に対して剣を抜き攻撃体勢に入ったところへ、
「止めや」
 一声。
 その一声で少年二人の動きがぴたりと止まった。
 そして、獣の眼がゆっくりとロゼットを見て、
「手前も……、この嬢ちゃんの連れだらなあ。名前は何や」
 名前――その一言が今のロゼットの逆鱗に触れる。
「ロゼット」
「ロゼット……、ほお、ロゼットとねえ」
「言っとくけどさ、今ボクすっごいムカついてんだよね。だから早く消えてくれるといいな」
「ロゼットといや、昔はよう聞いた名だらな」
 だが獣はロゼットを全く無視しているように、
「――あの大災厄の名だ」
 一瞬。
 その言葉の一瞬の後には、ロゼットがアニスを振り払い、剣を抜き放っていた。
 そしてまた、獣も刀でそれを受けて防いでいる。
「そいつと――、」
「ロゼットちゃんっ!」
「“そいつ”と、ロゼットを一緒にすんな……っ!」
 語尾と同時に剣を跳ね上げ、甲高い音を立てて刀と弾き合う。アニスの懸命な制止――全て無視。振り上げた剣をもう一度全力で叩きつけるが、これも獣に容易く受けられた。
「何だあ、手前一体何を……」
 再び剣を強く弾き、その一瞬で距離を取る。
 ロゼットは柄のホルダーをひとつの動作で戦闘起動に切り替え、
「リアツ!」
 そこへ短縮起動の音声入力――起動する“機動力事実”のアタッチメント・ネーム。
 名前を纏う――ロゼットからロゼット・リアツへ。
 その様子を見て、獣が面白がるように言うには、
「成る程なあ、手前、――名無しか」
「――るせェっ!」
 その叫びと同時に始まるロゼットの攻撃――超高速の連撃。それを実現している“機動力事実”の名前――その名前が呼び寄せる仮想現実のWord。
 超絶の連撃――闇雲な攻撃。
 獣が呼び込んだWordを振り払うような動き。
 そのWord――“大災厄▼ロゼット”。
 そのフルネーム――ロゼット・インテンス。四年前にフェイ・ランの小都市で“発生”した契約者の名。当時僅か十三歳の少女が起こした大波乱――フェイ・ラン全土から契約者阻止のために集結したシール騎士団武人階級騎士軍三千人を数日で全滅させ、騎士団を壊滅状態に追いやる。度々国王への財政援助も行っていたそのフェイ・ランの非公式的な財務省は、それを機会に合併が進んでいた聖イルハ騎士団に完全に吸収され、それ以降のフェイ・ランにおける他国ケイトリに対しての戦力的不利の因子となる。
 そして三千人の大量殺人からさらに二日後――驚くほど簡単で静かに、ロゼット・インテンスは捕縛された。それから慎重に厳重に迅速に契約者処刑の段取りが進められたが、処刑当日になってロゼット・インテンスは脱獄を実行し、以降世界からその姿を消す。
 契約者による被害は、しばしば災害に例えられる。
 巻き込まれた人間は、それが過ぎ去るのをただ待つしかないからだ。
 そして、その大災厄と同じ“ロゼット”という名前を所持する少女――名無しの少女。その名前が纏う優秀さ、上品さ、優美さを持った仮想現実のWord――それに憧れる少女。その名前と同じ音でありながら、殺戮の事実しか示さない災厄の名前――それを嫌悪する少女。
 その名前の意味を知らないがために、二つの名前の同一をどこかで恐怖している少女。
 恐怖を拒絶する少女――拒絶するための連撃。
 と、続く右上からの二十四撃目で連打が停止する――獣がその一撃を弾くのではなく受け止めたためだ。
 獣がその攻撃を防御するのに用いたもの――指三本。
 片手で掴まれた剣――強く力を込めるが動かない。
 ロゼットはその指を斬り飛ばすため、素早く柄を持ち直し力を横方向へ。その動作のための一瞬の停止の間に、ロゼットの視界が俄かに翳る――視界の右端から何かが襲来。
 左拳。
 獣の放ったカウンターの鉄拳がロゼットの頬に直撃――少女の顔を容赦なく殴る豪気の篭った一撃。
 剣を手放すロゼット――吹っ飛ばされて地面を転がり倒れる。アニスが駆け寄ってきて何かを叫ぶが脳が揺れてうまく聞き取れない。手をついて起き上がろうとするが、力が抜けて崩れ落ちる――口から零れる血と唾液と歯と一緒に地面に伏す。
 獣がその傍らに歩み寄り、ロゼットの剣を地面に突き立てた。そしてロゼットに向かって謝るように何かを言う――断片的で不明瞭。アニスにも何かを言い、アニスはそれに頷く。それを見た獣は踵を返し、舎弟二人を連れて去っていく。
 アニスがロゼットの剣を鞘に納め、その身体を起こす――痛みと、苛立ちと、悔しさと、情けなさで動けなくなっているロゼットの身体。
「……ごめん、アニス」
 アニスの肩を借りてようやく歩けているロゼット――呟くような一言。
「えへへ……、一緒に怒られようね」
 それに応えるアニスの言葉――ロゼットを見つつ微苦笑。

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