このマンションはペット禁止です

   あほこ

 毎度のことだが目が覚めると、とても憂鬱な気分になる。朝が来るのは早すぎて早く寝ても損をした気分になるだけだからと早寝を嫌うようになったのはいつの話だったか。時計を見る。短針は布団に入って最後に確認したときから三つほど歩を進め、ちょうど五時を指していた。早寝を嫌うようになって久しい自分だが、不本意ながらここ最近睡眠に関して更なる習慣ができてしまった。平日休日関係無しに五時きっかりに目が覚めるのだ。
温い布団から身を起すと冬の朝の冷たい空気が寝起きの体にぴたりと巻きついてきてぶるりと身が震えた。洗面所に向かい顔を洗い、歯磨きを済ますとようやくしっかりと目が覚めた心地がする。布団は敷きっぱなしで玄関に向かった。これから何を作ろうか。卵でも焼いて、この間の残りの焼き鮭を温めなおし、あとは昨日の残りの里芋の煮っ転がしと茹でて冷凍してあるほうれん草を味噌汁の具にしようか。先日同僚の田舎から段ボール一箱分送られてきたミカンも腐る前に食べねばならない、仕方ないがこれからしばらくは毎日ミカン生活だ。
 狭いながらも片付いた玄関の扉の鍵を開け、チェーンを外す。ノブに手をかけマンションの扉特有の重みを押し返して扉の脇を見やると、この早朝の習慣の元凶たる青年が座り込んでいた。
「おはよ、遼次さん」
 このへにゃりとした青年の笑顔に軽く頭痛を感じるところまでが習慣だ。
 この間が抜けたような顔をした男の名前は坂上るい、という。本名であるかどうかは知ったことではないし、自分は滅多なことでは名前を呼ばないから問題はない。彼は彼でやたらとこちらの名前を呼びたがるし、自分も呼ばれたがっているのかもしれないがそれこそまさに知ったことではないと思う。ついでに言えば普段どこに住んでいるかも不明だし何の仕事をしているかも不明。金には困っていないようだから何かしらは金もうけの手段は持っているのだろうとは思うが様々な要素がひたすらに不明だった。
 そしてこいつはこの七ヶ島家に朝夕の食事を食べに来る野良猫である。
 はぁ、と溜息をついて座り込んだままのるいの手首を取った瞬間、思わず眉間に皺が寄った。冬の朝は寒い。こいつがどれほどの間、扉が開くのを待っていたのかは知らないが恐らく普段から高くない体温の持ち主である体は冷え切っているだろうと踏んでいたのにこれは一体どういったことか。面倒くさいことになったと空いている左手で頭を掻いた。
「どうした」
何やらニヤニヤとしているるいには伝わらなかったらしい。普通の成人男子が言ったら場が白けること間違いなしの返事が返ってきた。
「ふえ?」
「人間らしい返事をしろといつも言ってるだろうが」
 ぐい、と右腕に力を込めて細い体を引っ張り上げながら咎める。
「ん゛ー。遼次さん難しいこといわないでよぉ」
効果がないのはまぁわかりきっているが、自分の性格上これだけはどうにもならない。
「お前のいう難しいことを全人類がやってのけてんだから世の中捨てたもんじゃねえな。で、どうした」
しっかりと目線を合わせて聞く。同時に目元が少し赤くなっていること、その瞳がいつもより水気を多く含んでいることを確認して、ああ間違いないな、とまた溜息をついた。
「うー? どうもしないよ?」
「嘘こけ、顔見りゃわかる。猫の風邪の治療法なんか知らねえぞ」
「え? 風邪ー?」
「わかりやすいごまかしは止めろ、話が進まん」
ごまかし、と自分では言ったものの本当にるいは自分の体の状態に気付いていないのだろうとはわかっていた。寒さも極まる外で長話していても始まらないと当初の予定通り部屋に引っ張り込む。まずは居間で準備をしなければ。
「誤魔化してないよ。ヌレギヌだぁ」
 ずるずると引っ張るように大した距離のない廊下を進み、居間のドアを開きながら肩越しに振り向く。本当に自分の状態をきちんと把握できていないらしいるいはわあわあ騒いでいる。
「おぅ、お前そんな難しい言葉知ってんのか。ちっとは自立できるんじゃねえか?」
冗談めかして言ってやれば即座に猛抗議。
「やだよっ、オレ絶対遼次さんと離れないかんねっ」
この状態ならそこまで酷くはないだろうと自分で納得し、とりあえずるいをソファに放るように座らせた。早足に寝室に戻り、つい先ほど役目を終えたばかりの毛布を持ってきて頭からかぶせる。毛布の下から何か悲鳴が聞こえたような気がするが気のせいということにしておく。
「あーあーうるせえ。なら早く風邪治せ、うつされたら敵わん」
 さて次は……と思考を組み上げかけたところで気付く。こいつは今日も、図々しくも人様の朝飯をいただきにきているわけで。つまり、まだ食べていないことになる。あーあーとようやく毛布から顔を出した頭に投げ捨てて、間続きのキッチンへと向かう。
「ちょっと待ってろ」
いまいち自信はないがやらねばならなければ、やらねばならないのだ。ぼんやりとした声が居間から聞こえる。
「んー? 風邪ー? まぁいっか。遼次さんが甘やかしてくれるならなんでもいー」
また頭痛を引き起こしてくれそうなセリフだがそこは放っておくに限る。頭の中で聞きかじりの知識を総動員しながら冷蔵庫の中を探索していく。
「おう、なんでも良いが大人しくしてろよ。前みたいに茶碗割られたくねえからな」
 ただし注意だけは忘れない。これも慣れか、とまたも溜息が洩れる。
「はーい」
溜息は、素直な返事に苦笑へと変わった。


* *

 居間に戻ると風邪っぴきはしっかりと毛布に包まって眠っているようだった。幸せそうな寝顔に一瞬怯むが、このままで良いわけはない。お椀を持っていない方の手でなんとか起こそうとして、その方法に迷った。相手は病人だ。いつものように頭をすぱん、と叩くのはもってのほかだし揺するのもどうかと思う。迷子の左手が行き着いたのは茶髪の頭のてっぺんだった。わしゃわしゃと犬でも撫でるように細い毛を指に巻きこむ。ゆっくりと瞼を開く姿に少し安心した。どうやらこれで正解のようだった。
「ほれ。病人食だ、食え」
「わぁ、鮭粥だぁ。うれしー。ありがとう、遼次さん」
お椀を差し出すとぱっと顔が輝く。少し寝て、体力が戻ったのだろうか。目ざとく鮭の存在を見つけて喜んでいるるいを尻目に自分は昨日の夕飯の残りの処遇を決めかねる。
「ん。さっさと食って寝ろ、アホガキ」
鮭は使った。煮物はまあそのままでいい。あとは卵か、などと考えているところに病人が妙な要求をしてきた。
「ねぇねぇ、遼次さん。あーんして?」
「ああ?」
 思わず眉根を寄せて聞き返すと少し『まずった』とでも言いたげな表情で弁解される。
「怒んないでよぉ」
「怒っちゃいねえよ、呆れてんだ……」
事実だ。アホガキの世迷いごと一つで腹は立てたりしない。が。
「いーじゃん別に。オレを病人に仕立てたのは遼次さんなんだから、責任もって甘やかしてよね」
面倒くさい、と思っていると気にしていたところを突く言葉が投げかけられる。そうなのだ、今やこいつの食生活の三分の二は不本意ながら自分が管理しているも等しい。もう少し自分が違った献立を出していればこんなことにはならなかったかもしれないと思っていたところにこれだ。少し打ちのめされた心持ちで低く声を上げる。
「責任転嫁すんなよ、お前いくつだ」
「してないもん。ねぇ、だめ?」
 そこまで言われてしまっては、最早返す言葉もなかった。差し出されている匙を取る。
「……口開けろ」
「やった、へへ。遼次さんだぁいすき」
こっちの気も知らないでへらへら笑いやがる、この野郎。とろりとした粥を掬って、こいつは猫舌だったなと思い出し、少し息を吹きかけて冷ましてやってから口を開けるるいの顔の近くに持っていく。
「黙って食え、せっかく作ってやったのが冷めるだろうが」
「はぁい」
「ああそうしろ」
 ほれ、と動かせばぱくりと匙に食いついた。見た目は上々、念のためにした味見でも悪くはないと思いはしたがやはり作り慣れない料理は評価が気になる。
「……旨いか」
ぼそりとつぶやいた言葉にるいは満面の笑みで応えた。少し安心する。
「うん、すげぇ美味しい。めちゃくちゃ幸せ」
そうか、と頷く。やはり相手が何であれこう言われることに喜びを感じるのは誰であれ同じだと思う。
「風邪引いてるやつが幸せたぁ、随分お気楽なもんだな」
間抜けにもほどがあると言いたくなるほどの緩みきった笑顔に内心苦笑しながら返す。病人のくせに何を言ってるんだろうかこいつは。
「そう? でも本当に幸せだもん」
「頭が沸いちまったんだな、可哀想に」
 もういいだろ、と匙を返しつつ少し芝居がかった態度で言ってやればぶう、と膨れる顔が面白かった。
「もう、すぐそういうこと言う……。いーもんね、別に」
しばらく観察し、新聞でも読むかと思い始めた頃かちゃりと椀の底に匙が当たる音が響き始めた。幸い食欲はあったようだ。立ちあがって、大して世話になったことのない薬箱を引っ張り出す。
「そろそろ食い終わるだろ、粉薬はさすがに飲めるよな?」
中身を思い出しながら聞くと、とんでもない答え。
「遼次さんがお水飲ませてくれるんでしょ?」
 ナチュラルに飛び込んできた発言に驚くでもなく冷静に対応できるようになってしまっている自分も無駄にこいつと時間を過ごしていないな、と思う。
「頭沸いてるんだな、やっぱ……」
「なんでよ、いーじゃん。飲ませてくれたって」
むしろこちらがなんでだと聞いてやりたい。やっぱりこいつはアホだ。
「断る。なんでわざわざ病人に粘膜接触しなきゃならねえんだ馬鹿馬鹿しい」
やれやれ、と溜息混じりに言うと何やらるいの顔がきゅっと強張って一瞬だけ体勢を崩した。少し焦りつつもどうかしたかと言いかけた口が言葉を紡ぐ前に弱弱しい声が鼓膜に届く。
「遼次さんエロい……」
今回の脱力感はなかなかに激しいものだった。
「具体的に表しただけだろうが、何考えてんだお前」
「べ、別に……。ヴーっ、遼次さんのバカっ」
何をそんなに反応する必要があったのかはわからないがバカと言われるのには納得がいかない。お前にうつされたら誰が世話するんだバカ。俺には会社というものがあるんだぞバカ。
「お前に一番言われたくない言葉だよそれは」
「遼次さんが意地悪したんじゃん……。ねぇ、飲ませてよ」
 尚も食い下がるるいにまた溜息。なんでそんなにこだわるんだそれに。
「断ると言っただろが。さっさと水飲んで薬飲んで寝ろ」
可哀想な思考の子供にもちゃんとわかるように段取りごと教えてやる。
「絶対だめ?」
「絶対だめ」
すがるような眼は声と視線で一蹴した。
「わかった……。我慢する……」
心底残念そうな顔をするものだから、胸の奥にほんの少しだけ罪悪感が生まれる。それを振り切るように冷たい水を入れたコップと封を切ってやった薬の小袋を渡した。
「おう頑張れ」
「んー。頑張るけど……」
 そこまで薬が嫌なのか躊躇う姿に声をかける。とっくに成人してる、と本人は言い張っているし、実際そのはずである、そのくせに粉薬相手に尻込みするのもいかがなものかと思うがそこには目を瞑ることにする。
「見ててやるから早く飲め」
「うん……」
るいは覚悟を決めたように口に薬を含み、一気に水をあおって飲み干した。グラスから口を離した瞬間うえええ、と情けない声を出す様に思わず笑ってしまう。
「よし飲めたな、偉い偉い。寝ろ」
頭を撫でようと伸ばした手は目的地に到達するに妙な発言に遮られた。
「寝るのやだよ」
 今の自分は恐らく、はあ? という顔をしているに違いない。今度こそ完全に拗ねたようでるいはそっぽを向いてしまった。
「この期に及んで何を言うかクソガキ」
「だってさ、寝ちゃったらもったいないじゃん」
 ぼそぼそと語られる言葉に注意深く耳を傾ける。
「ん?」
「遼次さんどっか行っちゃうでしょ? 寂しいじゃん」
そんなことか、と思いつつもとにかくここはるいに寝て、早く直してもらわなければならない。説得は効くだろうか。
「今日は休みだ。出かける気はねえよ」
安心させるように柔らかく話すように心掛けてみるが、正直変化はしているのかどうかはわからない。もっと自分の声帯は器用になってくれはしないだろうか。
「うん、でもさ。ずっと傍には居てくれないでしょ? オレが動けたら離れないのに」
「そりゃ俺は置物じゃねえからな。お前はいつでも離れずひっついてる人類でも知ってんのか?」
まったく、仕方ない。苦笑して言うと、るいはハイ、とばかりに手を上げる。まあ予想通りなんだが。
「うにゃ? ここにいるじゃん」
 ただ、予想通りすぎて思わず苦笑を深める。お前も置物にしては毎日ここの玄関先まで移動したり、よく動くけどなあ。
「たまには休業したらどうだその職業」
今回の風邪だってそれがある程度は原因なのは明らかだ。それは間接的に自分こそが原因ですと言っているようなもので、少しくすぐったいものがあって言わなかったが。
「やぁだよ。一年三百六十五日うかうかしてる時間はないのです」
「じゃあ今日は病欠で臨時休業ってことで」
そんなに必死になる意味がわからない。なぜだろうか、なんて考えることはあまりに理由が見えないままで半ば諦めている。若さゆえの情熱だとか、そんな風に解釈しているのだが、その情熱を向ける相手が三十も後半に足を突っ込んだおっさんかと思うとやはりわからない。なにを考えているのだろうかこいつは。
「そういうこと言うならオレ寝ないかんねっ」
またそっぽを向くるいに困った、と思う。とりあえずは布団をちゃんと敷き直してこようと足を寝室に向ける。
「ああ言えばこういうなお前は。いいから寝ろ、布団敷くから」
「ヴー。やだよぉ」
遠ざかる居間から駄々をこねる声。仕方ないな、と譲歩してやることにした。
「うるせえなお前は、外に放るぞ。隣にはいてやるからさっさと寝ろっつってんだ」
そう言った瞬間るいの声音が変わる。なんだおっさんが近くにいるってだけでこの喜びようは。
「ほんとっ!? じゃあ寝る! いいこにするっ」
 大喜びするだけでは飽き足らず、寝室まで自分で走ってきやがった。ちゃっかり毛布も持参。こういうあたりしたたかで、本当はバカなんかじゃ全くないんだろうとはわかっているものの自分に見せる姿がバカそのものなんだからそう呼ぶ以外にないだろうと思う。いや何かあるのかもしれないが、自分には特に考え付かないので仕方ない。
「変わり身早すぎだろお前……ほれ寝ろやれ寝ろさっさと寝ろ」
そんなことを考えながら、嬉しそうに布団の前に座り込んだるいが潜り込みやすいように軽く掛け布団をめくってやると、それこそ猫のように滑り込んだ。
「はぁい。ちゃんと寝るから傍にいてね。約束だからね」
子供のようなことを言って見上げてくるるいの胸のあたりまで布団をかけ直してやりながら頷く。
「おう。せいぜいお前が布団蹴らないように見といてやるから安心しろ」
「そんなことしないよ。オレ寝相いいって知ってるでしょ?」
「さあな、どうだか」
軽口を言い合いながら、さっきまで使ってた布団でなくて押入れに仕舞ってあるやつのほうが良かっただろうかなどと考える。今日は確かこれから晴れなのだから、こっちの布団は干してしまった方が良かったのではないだろうか。
「寝てる間にどっか行っちゃやだよ?」
 そんなことを考えているとは知らないるいがまた甘えるように話しかけてくる。このままでは本でも読めとか言いだしそうな勢いだ。
「まぁたそれか。心配ないって言っただろ?」
「うん。えへへ」
でれでれと溶けたような笑顔を浮かべるるいにもうどうでも良くなってしまった。本当は昼は家にない冷却シートやら氷嚢やらを買いに行こうと思っていたのに対象がこれでは動きようもない。今日のところは潔く一緒にいてやることにして、敷き布団の端に身を横たえた。
「……ん」
やはり室内と言っても冬の床近辺は寒いな、などと思いつつるいの様子を見てみると目をめいっぱいに開いてこちらを見つめているものだから心底驚いた。お前も驚いてるみたいだけどこっちのがよっぽどビビるわ!
「い、一緒に寝てくれるのっ?」
どうしたんだ、の呼びかけに返ってきた言葉にこちらも目を見開く。なんだ、一緒にいるってこういう意味じゃないのか。他に何がある……とそこまで考えて、一緒に寝ろ、とは言われていないことに気がつく。単に同じ部屋にいろとか、そういう意味だったのか、もしかして。
「な、なんだその物言いは、もっとなんというか……マトモに話せ、マトモに!」
妙な勘違いを勝手にしでかしたことに舌打ちをする。だいたいなんだいつもいつもひっついてくるくせに安いにもほどがあるだろお前、なんだその顔! いつも通り平然としてろよお前!
「ふえ? どーしたの、遼次さん」
 るいのぽかんとした、あっけにとられたような顔がさらに羞恥を煽る。くそったれと心の中で声を大にして叫びたい。というか、もう叫んだ。くそったれ。
「あーもう黙れ! 黙って寝ろ! こっちみんな!」
しばらくこちらを観察していたるいの口許が不意に上がった。知っている。これは、まずい。
「やーだ。ねぇ遼次さん、ぎゅってして?」
案の定普段よりもさらに甘さを含んだ声で寄ってくるるいに頭を抱えた。そこまで色は白くないからばれてはいないと思うが、明らかに熱が顔面に集まってくる感覚に震える。
「ああ!? 何言ってんだ誰がんなことするかよ……頼むから早く寝ろホント……」
こうなったるいを止める方法を俺は知らない。ついでに言うと、なぜかこんな状況に陥った自分をどうにか元に戻す方法だって俺は良く知らない。中年のおっさんが顔赤くするなんて酔っぱらったときだけで十分だろうが、想像して寒気がする。こいつに風邪をうつされたんだろうか。やめてくれ、こちとら勤め人なんだぞ。
「ふふ。もう、遼次さん大好き」
ここで改めて言うのかお前は。なんとか落ち着こうと今週末に買わねばならい食材と、それらをどこで購入するかを必死で考えているとなんとか崩されたペースを見られるくらいには取り戻せたように思える。このあたりに寂しいやもめの心情を自分で垣間見た。
「あー……ああ、勝手にしろもう」
もうまともに言い返すのも面倒になって返すとるいは「うん」と頷いてそれこそ嬉しそうに、今度こそ体にぴたりとくっついてきた。
「ねぇ、腕枕して?」
「お前は俺の腕痺れさす気か」
至極真っ当な返答をしたはずなのにるいは不服そうに唇を尖らせる。
「遼次さんがもっとこっち来てくれればいいんじゃん。たまにはいいでしょ、だめ?」
別に上目づかいがやばいとか、そんなことで騒ぐ歳ではないし、だいたい相手が男だということもわかっているけれども、たぶんそういった感情とはまた別のところに、こいつに甘くなってしまう自分がいるのだと、そう思う。
「……お前さ、なんか風邪引いたほうが余計に活発になる体質とかか?」
「え? いつも通りだよ。毎日して欲しいって思ってるけど、こういう時でもなきゃしてくれないかなって思うから。だからちょっと甘えてみただけ」
 まさにその通りである。今日の自分はかなり甘いという自覚は、ある。ただそれを実際に面と向かって言われると正直立場がない。本日何回目かもわからない溜息とともに、ほんの少しるいの近くに寄って、掛け布団をかけ直す。
「計算で動くなよ、タチ悪ぃぞお前……」
「計算じゃなぁいよ。ただの気づかい」
笑顔の一言についに耐えきれなくなって顔を背ける。つらい。何がと言われてもつらい、としか答えようがない。このどうにもならない状況か、それとも。
「誰に対してだっつの、クソ……」
「オレの大事で大好きな遼次さんへの思いやり」
「気持ち悪ぃ早く寝ろ! もう知らん!」
笑みを含んだ声で囁かれて今度こそ顔に火がついたようになったのを自覚する。見られないようにして良かったと本気で安堵する。こんなところ見られたらひとたまりもない。くそ、と顔が歪む。なんだこれ、どういうことだ、くそ。
「いいよ、気持ち悪くても。遼次さんのでいられるならなんでもいい」
次々に襲いかかる言葉に、片手で顔を抑える。なんでそんなに一直線で直球で一生懸命なんだお前。俺にはもうわからない。耐えきれなくて、ついに白旗を揚げた。もうこれ以上はやめてくれ、頼むから。つらい。
「お前が、いつ、俺のに……ああもういい加減にしてくれ、お前は何が言いたいんだ……」
「何って、遼次さんがいればそれでいいんだよってことかな」
 その降伏のサインすら無視して更なる追撃をかけるるいに、心の中で大声をあげた。なんでそう簡単になんでもかんでも乗り越えてくるんだお前。もうやけっぱちだどちくしょう。
「そら安い満足感だなまったく、楽そうでいいもんだ!」
中年のおっさん一人そばにいれば十分だってか、ふざけんな。なんで簡単にそんなこと言える、顔と頭はいいんだからもっと他のところに行けというのに。
 先のことなんか、これっぽっちもわからないのに。
それなのに、そんなことを言っても今ばかり見ているこいつはこいつでまた勝手に勘違いして笑うのだろう。
「それってさ、遼次さんがオレとずっと一緒にいてくれるってことだよね」
「……どうせ、お前が勝手についてくるだろ」
投げやりに返すと自信をにじませて宣言される。
「うん。ついてく。当然でしょ」
本当にしょうがない奴だな、と思う。しょうがないから、放っておけない。少し身を起して向き合うと、予想通りの笑顔がそこにあった。適当に腕を伸ばしてがしりと抱きこんでやった。そうだ、もう寝てしまおう、一緒に。
「そうか、せいぜい俺に迷惑かけてくれるなよ」
「はぁい」
 肩にかかる息がくすぐったい。ただ二人以外に何もない部屋で眠っているうちは眩しさに目が眩むこともいつかの不安もなくなるだろうか。


あとがき

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