朝綺

 十月も終わりを迎えると、気温もぐっと低くなる。
 今日は特に冷え込んで、とっぷりと日の暮れた闇の中、寒さが沁み入るようだった。
 吐く息を指先に吹きかけて、ささやかな暖を取る。
 三尾奏はぽつんと、バイト先であるカフェの前に立っていた。
 まだ明かりの灯る店内をじっと見つめる。
 光量を落とした淡い照明の店内で、髪の長い長身の青年が閉店前の最終チェックを行っていた。
 うつむいた拍子に、束ねられず残されたサイドの髪が肩からこぼれる。長い指が慣れた所作でその束を耳に掛けると、端正な横顔が現れて、奏は一瞬目のやり場に戸惑った。
 それでも奏の漆黒の双眸は、ひたすらに彼を追い掛ける。その存在を視界から完全に外してしまうことなど、出来るわけがないのだというように。
 九重良梧。バイト先の先輩としか、表現しようのない相手。なかなか物慣れない不器用な奏の、半ば専属の教育係になっている。近隣の大学に通う、二つ年上のハタチ。近所で一人暮らしをしていて、「今の所」恋人はナシ。随分前に彼女にフラれてから、未だにそれを引きずっている様子。
 それが奏の知る、良梧についてのほぼ全てだった。
 穏やかで、少しばかり頼りない。奏を唯一「奏」と名前で呼び捨てる。
 奏がこの世で、最も苦手とする人物。
 嫌いなのかと訊かれれば、答えは否。そうなる方法を教えてくださいと一も二もなく縋りたい所なのだった。
 要するに、好き。それも、淡いなんていってられないぐらいに重たい恋心を抱いている。
 募るばかりの恋情が苦しくて、もういっそ憎らしい。
 それでも傍にいたいから、見ていられるだけで幸せだから、奏はせっせとバイトに励む。ただその動機がちょっとばかり……いや、随分と不順なものだから、彼に見惚れてミスはするし、緊張し過ぎて仕事は覚えられないし、落ちこぼれ店員の第一に躍り出ちゃったりするのだが。
 この恋を叶えようなどとは、端から思ってもいない。むしろ願いはその逆で、絶対に、何があっても、胸の内の重苦しい懊悩が悟られることのないように。
 避けられるのは、何よりも怖い。
邪気のない穏やかな彼の瞳に、嫌悪の色がさしたりしたら。
 あの笑顔や砕けた態度が遠退いてしまうぐらいなら、一生ただの後輩くんでかまわない。彼がこの職場を去って行くその日まで、交わす言葉や向けてもらえる表情を、一つ一つ大切な思い出として重ねて行けるだけで、奏にはもう十分なのだった。
 オープンテラスの軒下にぐるりと吊り下げられた、やわらかな光りを放つ橙の豆電球がふっと消える。木製のドアの脇に飾られている、カボチャのオブジェに灯っていた明かりも同時に落ちて、闇の濃度がぐっと増した。
 どちらもが、ハロウィン気分を演出するための期間限定の飾り物。
 そしてそれも、今日で終わり。日付が変われば十一月だ。
 温かなオレンジが消えてしまうと、途端に寒々しさに包まれた。ほんのり明るい屋内が、見つめることすら許されない遠い場所のように感じられて、心細くなる。
 どういうわけか、不意にかち合う視線。
 良梧の浮かべた親しげな笑みに、体温が確実に五度は上がった。

***

「おう、お疲れー奏!」
 甘くなめらかな声がする。
 懐っこい表情が、かっちりとした唇で紡がれる己の名が、痛いぐらいにこの心臓を締め上げることを彼は知らない。
「お、お疲れ様です」
 ただそれだけの言葉を返すにも、震える程の勇気を必要としているなんて思ってみもしないのだ。
 それでよかった。
 変わることのない態度に、安心できる。
 気付かれていなければまだ、この人の傍にいられる。
 確かめて、ほっこりと胸に灯る温かな安堵。
「ようやくハロウィンイベント終わったなー」
 わずかな名残惜しさと、一仕事終えた後の解放感をたたえた表情で、良梧はぐっと大きく伸びをする。
 その広い胸に、一度でいいから包まれてみたいのだと不埒なことを考えてしまい、奏は一人恥ずかしさにおた付いた。
「そう、ですね」
 奏がようよう言葉を返す内、すらりと長い腕が軽々と、カボチャの置物を持ち上げる。ジャック・オ・ランタンを模したそれは良梧の腕に抱えられ、扉の内側へと姿を消した。
 しなやかで流れるような所作にぽーっと目を奪われてしまってから、気付く。ドアを支えておくなり、カボチャ運びを手伝うなり、出来ることはいくらでもあったのに。
 奏が気の付かなさに自身を責め、地の果てまで落ち込んでいる間にも、良梧は最後の照明を落とし、施錠に取り掛かっている。
 (マジでおれ使えねぇ……)
 思わず零した苦しい溜め息をかき消すように、向けられた背中がくつくつと震えた。
 何と見開く奏の瞳と、施錠を終え振り返った良梧のそれが勝ち合うと、彼は再び喉を鳴らした。
 いぶかる奏の視線から逃げるように一歩を踏み出しながら、ただの思い出し笑いだと彼は言う。
 奏は慌てて後を追った。
 百八十を軽く超える身長の彼と、比較的小柄な奏では、生まれ持ったコンパスが違う。良梧もそれはわかっているらしく、一人で歩く時よりも歩調を緩めてくれているようなのだが、それでも距離を一定に保とうとすれば、奏は自然と速足になる。
 大型犬の後を追う子猫のようにせかせか脚を動かしながら、何を思い出したのかと問うてみる。
 彼の語る所によると、ここ数日従業員たちに課せられていたハロウィンの仮装が、良梧のツボに入ってしまったらしかった。
「はは、お前の狼男仮装、どっちかっていうと犬みたいだったけどなー」
 従業員「たち」の仮装というよりは、奏の仮装がピンポイントで笑いを誘っているようだ。
 周りの装いを見てみれば、お手軽な帽子にボディペイントと、仮装と言うよりちょっとした雰囲気作りやニュアンスだけといった格好ばかりだったのに、何故か奏一人、明らかに仮装とわかる衣裳を押しつけられていた。
 垂れ気味の三角耳に、ふさふさの長いしっぽ。
 先輩たちにも散々に笑われたし、確かに情けない格好ではあった。
 だけれども。
「い、犬って……」
 自分だって思わなかったわけではない。しかし、それを言ってしまっては。
「センパイが無理やりさせたくせに」
 前を行く背中に投げた不貞腐れたセリフは、実は盛大な責任転嫁だ。
 似合うんじゃないの? と、あの日良梧が言ったから。
 それならと、ふざけた衣裳に手を伸ばしてしまった浅はかな自分。
「だってアレ付けようとしてくれるやついなかったし? 早い者勝ちなんだってああいうの、クリスマスでは貧乏クジ引かないように頑張れよー」
「そんな……。いや、頑張りますけど……」
 他人事みたいに言うくせに、声音はやけに優しくて、まいる。
「この調子じゃお前アレだぞ、トナカイさん一直線だからな」
 早くも未来の奏の姿を想像でもしているのか、良梧は低く喉を鳴らした。
「まあ今回かわいいって評判だったしいいんじゃないか?」
 ある一つの単語を咀嚼して、沸騰。
「ちょ、な、何言い出すんですかっ……!」
 可愛いって、可愛いって!
 笑みを含む甘い声で、眩暈のしそうなセリフをくれる。
 異常数値の心拍数。熱を持ち始めた熱い頬。どこまでなら早歩きのせいにしてごまかせるだろうか。
 夜でよかった。彼が前を見ていてくれてよかった。
 そうでなければ、一発で気持ちの全てを悟られかねない。
 なんて安堵したのも束の間で。
「そーやって妙に恥ずかしがるからネタにされんだよお前ー!」
 ぴたりと良梧が脚を止め、振り返る。
 さらり、長い髪が大きく揺れた。
 街灯がぼんやりと照らしだす、優しげな顔立ち。
 大好きな、やわらかい鳶色の瞳。
 トクン。
「よしよしお兄さんがそんなへなちょこ奏くんにいい物をあげようじゃないか」
「な、なんすか……?」
 思わせぶりに笑んで、大きな手がポケットを探る。
「よーし目、つぶってー」
「え、えっ!? め、目って……」
 意図の掴めない要求に目を白黒させる。
「ほら早くー」
「え、あ……。はい……」
 優しい声に促され、結局奏はまぶたを伏せた。
「はい次、口あけてー」
 カサカサと、プラスチックの鳴る音がする。
「え、く、口!? あの、え……?」
 唇に何か硬い物が押し当てられる。
「ほいスキあり!」
「ッ!?」
 何ですかと問おうとした隙に、ころりと何かを押しこまれた。
 一瞬触れた、指先の感触。
 ぞくりと身体中の毛が逆立つような緊張。
 口腔を占める何かより、その温い感触に思考がかき乱される。
「なーんだ? 正解は店長にもらった余り物のアメちゃんでーす!」
 なるほど、じんわりとしみ出す、舌の上のほのかな甘さ。
 無理やりに押しつけられたプレゼント。
 ドキドキと、全身が心臓になってしまったみたいにのぼせている。
「あ、ありがとう、ございます……」
 ふわふわと宙を舞っているような心地の中で、どうにかそれだけを音にした。
 それからふと思い至る。自分がこの飴を手にすることの出来なかった理由。
「あのっ、でもこれ、もう余ってなかったんじゃ……」
 短期間のイベント用に特別に用意されたその飴は、従業員の間でも上手いことはけてしまっていて、気付いた頃には時すでに遅し。奏の分など残っていなかったのだ。
「ん? ああ、それオレがもらったやつ」
「そ、そんなっ! だってそれじゃセンパイの分が……」
 事もなげな良梧に奏は焦る。
 そんな様子もおかしいと言うように、良梧は笑った。
「あはは、気にすんなって! お前今日頑張ってたじゃん、ご褒美的な?」
 トクリと、甘い波に攫われる。
 働く様を見ていてくれた、頑張っていたと認めてくれた、それだけで胸がいっぱいで何も言えなくなってしまう。
 幸福を噛み締めるのに忙しい奏の表情をどう受け取ったのか、良梧は優しい苦笑を浮かべて見せた。
「アメ一個でガッカリするような小さい奴じゃねえぞオレだって」
「そんなこと……」
 言われなくてもわかっている。
 良梧はとても優しくて、だからこそ時に苦しい。
 けれど今は、そんな痛みまでもが幸福だった。
「ありがとうございます……。嬉しい、です」
「アメで喜ぶなんてお前も欲ないなぁ……」
 大人びた表情に目を奪われる。
 甘酸っぱくなる胸を持て余す。
「じゃ、クリスマスはもっといい物やるかな! お前が頑張ったら、だけどなー」
 不意に思いついたように良梧が目を細めた。
「え、あ……」
 クリスマスのプレゼント。
 まさかそんな物をもらえるなんて。先の約束を、もらえるなんて。
「今年はもう彼女もいないし、オレはバイトに生きる! 稼ぐ! 遊ぶ!! 決めたんだ!!」
 ――――。
 ズキンと軋んだ胸につられて潤んだ瞳に、気付かれなければいいと奏は思う。
 甘い幸福を漂っている時に限って、冷たい現実を突き付けられる。
 この人の隣に並ぶのは、可愛い女の子がふさわしい。
自分なんかじゃ、決してない。
「というわけでお前も一緒に頑張ろうぜ、な?」
 高い背を屈めて、顔を覗き込まれる。
 慌てて目をしばたいて、滲んでしまった涙の名残をかき消した。
 痛みがかえって、奏を冷静にしてくれる。
「あ、はい……」
 喉に絡むような声を絞り出せただけでも、上出来だ。
 泣くことだけはするまいと、奥歯をきつく噛み締める。
「なんだよ暗い顔して」
 心配げな表情に胸が痛んだ。
 彼は何一つ悪くないのに。いけないのは、浅はかにも恋に落ちたりした、自分一人。
 この人にこんな顔をさせてはいけないと、奏はぎこちなくかぶりを振った。
 けれど良梧は、納得がいかなかったらしい。
「そんなにクリスマス憂鬱か? いっしょにどっか遊びにでも行くか?」
「え……」
 どうしてそういう発想になるのか。あやすようなその言葉を一欠片も理解なんて出来なくて、奏はぼんやりと良梧を見上げた。
 (一緒に? どっか? 遊びに? 行くか?)
「センパイ今、クリスマス働くって言った……」
 わけなんてわからないままに口走る。
「来月のシフトまだだろ? クリスマス前後はシフト詰めて、んで当日はどっか行こうぜー」
 また言った。
 どこかへ行こうと、この唇と、この声で。
 聞き間違い? それとも幻聴?
「って、お前も男二人のクリスマスは嫌だよな普通に……ごめんごめん」
 頬に浮かぶ苦い笑み。
 やっぱり、確かに言っている。二人で出掛けてくれるって。クリスマスを、一緒に過ごしてくれるって。
 ようやく戻ってくる現実感。
「そんなこと全然っ!」
 とっさの叫ぶような訴えに、奏自身ひどく戸惑う。 
 けれど、奏にとっては見果てぬ夢だ。クリスマスを一緒に過ごせるなんて、夢以外の何物でもなかったのに。
 遠ざかろうとする夢を、引き止めずにはいられない。
「あ……。いや、あの……」
 降ってわいた信じがたい未来の予定に、あたかも同意するような反応を見せてしまってから、じわじわと不安が首をもたげる。
「せ、センパイこそ、おれと二人とか、つまんなくないですか……」
 視界に入る距離に良梧がいてくれるだけで、奏は十分過ぎる程満たされてしまうけれど。あがり症の奏は良梧の前ではことさらに硬くなって、笑みを見せることすらままならない。
 そんな頑なな自分なんかと一緒で、はたして良梧は楽しいのだろうか。
「え、あ、ああ……」
呆れるような苦笑い。
「お前がいいならオレはいいんだけど、ていうかオレが誘ったんだし」
 良梧の優しい瞳と声音が、甘やかすように言い聞かせてくれる。
 こいつは何を言ってるんだろうと、バカだなぁとでも思っているみたく。
 本当に、甘えてしまってもいいのだろうか。頷いてしまっても、いいのだろうか。
 トクトクと心音が速まって、不安を期待が押しつぶしていく。
「ホントにいいのか?」
 投げられた、口の中を満たす菓子と、同じぐらいに甘い誘い。
 一瞬触れた指先の記憶がトンと優しく背を押して、臆病な奏のためらう心を粉々になるまで砕いてしまう。
「あ……。はい……」
「よっしゃ!」
 こくんと小さな頷きに、はしゃくような歓声が上がった。
 わたあめが胸いっぱいに広がったようで、甘く苦しい心地になる。
 まるで、プロポーズでも受けるかのような心地。そんな大げさな約束だった。少なくとも、奏にとっては。
「じゃあ色々店回ってクリスマス当日も働いてる世の店員を御苦労さまって見つめる悪趣味ツアー行こうな!」
 夢見心地でいる奏の前で、良梧は無邪気に笑って見せる。
「そんな意味わかんないことするんすか」
 ふわふわとわたげにでも包まれた心地のまま、奏はおっとりと甘い苦笑を覗かせた。
 目の前のこの人が、今たまらなく愛しくて愛らしい。 
「何言ってんだ優越感ハンパねえぞあれ! 今から楽しみにしとくから奏、ちゃんとシフト出しとけよー」
 楽しみにしてるなんて。
 簡単にのぼせる。きゅんと胸が締め付けられた。
 いつになく、甘い痛み。
「はい……。わかりました……」
 噛み締めるように頷き返す。
 おれも楽しみですぐらい、言えればいいのに。
 言葉足らずな自分が恨めしかった。
 これで本当に、彼の隣で過ごす時間が約束されてしまったんだろうか。
 きゅうきゅうと胸が苦しい。
「あれですよね、それでおれらは世のリア充に憐れまれるんすね」
 なんとなく別れがたくて、不器用な奏なりに必死に言葉を捜し出した。
 そうだなと、頷いてくれればよかった。
 会話一行分の時間稼ぎをしたかった。
 ただ、それだけだったのだ。
「おい寂しいこと言うなよ、一人ならそうだけど奏がいるなら十分オレだってリアル充実だっての! ばかだなぁ」
 甘すぎる言葉と笑みに、見る間に頬に熱が灯った。
 その上大きな手が伸びて来て、くしゃくしゃと奏の黒髪をかき混ぜる。
 くらりと、眩暈。
「……そ、そんな冗談ばっかいわないでください」
 涙が出そうだ。
こんなにも幸せだなんて、明日はきっと何かとんでもないことが起きるに違いない。
 けれど、もうそれでもよかった。
「冗談のつもりはあんまりないんだけど……しっかし奏は固いよなー。そんなだからかわいいだのなんだの言われるんだよ」
「そんなこと言うの、センパイだけっすよ……」
 可愛いだなんて、そんな言葉をくれるのは。
「え、そう? じゃあオレってオンリーワンなわけだ! ……なんか笑えてきた」
 何がおかしいのか、良梧が喉を鳴らしている。
 確かに、奏にとって唯一の人であるわけだが。
「な……。もう、からかわないでください……」
 気取られたような気がして、真っ赤な奏が訴える。
「おうー、ごめんなー」
「いえ、別に……」
 向けられる温かな笑みに、それ以上憎まれ口をきくことが出来なくなってしまう。
「でもお前といると楽しいっていうか、楽なんだよな。なんでだかわかんねえけど」
 優しい笑みに泣きたくなる。
 大好きだ。
 誰よりも何よりも、一番にいとおしい。 
「クリスマス忘れんなよー」
「は、はい……」
 初めて交わす約束を、しっかりと胸に刻み込む。
 わかりやすい記念日だ。
 ハロウィンに、クリスマスの約束。
「んじゃ、オレ家こっちだから。気をつけろよー!」
「あ、はい」
 ぼんやりと応える奏に満足げに頷き返して、良梧はゆっくり踵を返す。
「……お疲れ様でした」
 遠ざかって行く後ろ姿に、小さく声を掛ける。
「おうお疲れー、またな!!」
 良梧は振り返り、長い腕を子どもみたいに大きく振る。
「ま、また……」
 見送る、大好きな後ろ姿。
 幸せ過ぎてとろけてしまう。
口に残る飴の甘さ。
甘く優しい夢の中、奏を置き去りにしてくれる広い背中に、奏も小さく手を振った。


あとがき

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