日常風景

   あほこ

 照明を暗く落とした室内を、目を凝らしながら歩く。キッチンの点検は終わったからあとはこのフロアの確認だけだ。閉店時にも行った作業だけれど大切な作業だからしかたない。ゴミは落ちていないか、お客様の忘れ物はないか。隅々まで丁寧に目を配る自分の足音だけが響く。たったの数十分前まで楽しげな談笑が続いていたこの店も、自分と同じく今日の眠りに就こうとしているんだなぁと妙な考えをするのは一年以上働いた小さなこの店に愛着があるからだと思う。
「今日までは特に忙しかったもんなぁ」
 ここ数日の賑わいを思い出すとつい笑みがこぼれる。大変だったし相変わらず細かいポカはしてしまったが店が繁盛するのは嬉しいことだった。恒例の従業員仮装も喜んでもらえたようだし、今年は上手くいったなと1人で満足する。お前もお疲れな、とレジの脇に置かれたままのお化け、というには少々サービス過剰な満面の笑みを浮かべている小さなかぼちゃをこんこんとつつく。
「あ」
 そうだ。待たせている人がいるのだから、のんびりしているわけにはいかない。ちらりと窓の外を見遣るとこちらを見ていたらしい視線とかちあった。すい、と目を逸らすその様子に少し胸が痛む。
 店の外で自分を待っているあの黒髪の青年の名前を三尾奏、という。見事に金髪に染めた上に背中まで髪を染めている自分が言うのもなんだが、このご時世にしちゃとんでもない真面目さんだ。他のバイトと違いわーわー騒ぐこともなしにただ黙々と――時々失敗もするけど、仕事をするタイプ。この職場じゃ一番の新人で、夜のシフトリーダーなんて面倒なものを押しつけられた自分は彼専属の教育係みたいなものをしている。この店の近所に住んでいる二個下の大学生で、この近くの大学に通い一人暮らしをしている自分とは途中まで帰り道が同じ。そのため二人のシフトがかぶった日は一緒に帰ろうと自分の仕事がすべて終わるまで待っていてくれるのだ。明日からは十一月。寒さも深まってきたこの時期の夜に外に立ちっぱなしというのは結構つらいはずなのに、彼は携帯電話を開いたり、暇つぶしなどもする様子も見せずひたすら立っている。慌てて最終チェックをハイスピードでこなして店から飛び出した。
「おう、お疲れー奏!」
 お待たせ、と心からの謝罪を込めて言えばもごもごとした声であまり待ってないですとか言う声が聞こえた。良かった、怒ってない。
「ようやくハロウィンイベント終わったなー」
「お、お疲れ様です。そう、ですね」
 奏は俯き気味に笑っている。この子がバイトに入ってから半年は経った。半ば奏の教育係も同然な自分と奏のシフトがよくかぶるのは必然で、バイトのメンバーの中で一番接する機会も多いのだけれど、これが奏の癖なのかは自分には未だにわからない。他のバイトにはちゃんと顔を見て話しているような気がするのだけれども、もし自分が避けられているとかそういう話だったら胸にぐさりと刺さること間違いないのでそれ以上考えるのはやめておくことにした。店の入り口にしっかりと鍵をかけたのを確認して歩き出す。そういえば、と今日の彼の働きを思い出すと思わず笑いがこみ上げる。
「はは、お前の狼男仮装、どっちかっていうと犬みたいだったけどなー」
「い、犬って……。センパイが無理やりさせたくせに」
 すぐに上がった不満そうな声がまた楽しい。ハロウィン当日である今日、奏はバイトの中で唯一派手な仮装を押しつけられるハメになっていた。自分はせいぜい頬にかぼちゃのシールを貼ったりするくらいだったのだが、奏は狼の耳と尻尾をつけてお客さんに微笑ましいとでも言いたげな柔らかい視線を集めながら働くことになってしまったのだ。しかも仮装者が奏である、わたわたと慌てながらも必死に給仕の仕事をこなそうとしている姿はとてもではないが狼とは言えるものではなかったように思える。
「だってアレ付けようとしてくれるやついなかったし?早い者勝ちなんだってああいうの、クリスマスでは貧乏クジ引かないように頑張れよー」
「そんな……。いや、頑張りますけど……」
「この調子じゃお前アレだぞ、トナカイさん一直線だからな。まあ今回かわいいって評判だったしいいんじゃないか?」
今回奏は出遅れたがために狼男になってしまったのだが、昨年のクリスマスに同じような失敗をして自分がトナカイさんになってしまったなんてことは絶対に言わない。ハロウィンに続いて自らに降りかかりつつある脅威に奏は弾かれたように顔を上げた。そんなに恥ずかしかったんだろうかとその様子にまた少し笑いながらコートのポケットを探る。
「ちょ、な、何言い出すんですかっ……!」
とっさに抗議してくる奏だが、自分の目にはもうはっきりとクリスマスのカフェで角と耳とベル付きの首輪をして涙目で料理を運んでいる奏の姿が見えていた。悪いな奏、オレ今年からトナカイさんはお前に譲ることにするよ。
「そーやって妙に恥ずかしがるからネタにされんだよお前ー!よしよしお兄さんがそんなへなちょこ奏くんにいい物をあげようじゃないか」
 他のバイトや友人が聞いたらお前が言えるセリフかと突っ込まれること間違いなしな言葉だって奏が相手なら言える。微妙な達成感と共に立ち止まって奏を見つめると、急な話に奏は目を見開いていた。そんなに驚かなくてもいいのに、面白いやつだなぁ。
「な、なんすか……?」
明らかに動揺する奏が面白い。少し悪戯してやりたくなって予定になかったことを言ってみる。ああ、なんかオレ今ならこいつのことつつき回してるバイトの奴らの気持ちわかるかもなんて酷いことを思う。
「よーし目、つぶってー」
「え、えっ!? め、目って……」
ほら予想通りの反応! これは確かに楽しい、かもしれない。
「ほら早くー」
「え、あ……。はい……」
急かしてやると奏は戸惑いながらも目を閉じた。街灯の下で何やら緊張しながら目を閉じる奏の姿は、なんとなく現実味が感じられないような気がする。
「はい次、口あけてー」
「え、く、口!? あの、え……?」
「ほいスキあり!」
「ッ!?」
 今度こそ驚いて大きく開いた奏の口に手に持っていたものを放り込んだ。立て続けに起こる予想外の出来事に奏はちゃんとついてこれなくなっているみたいで、開いた目が白黒している。悪戯はこれ以上もないほどに成功だ。あまりに愉快で思わず弾けた自分の笑い声が夜の住宅街に響く。ご近所迷惑でごめんなさい、だってこいつすっごい面白いんだ!
「なーんだ?正解は店長にもらった余り物のアメちゃんでーす!」
「あ、ありがとう、ございます……。あのっ、でもこれ、もう余ってなかったんじゃ……」
 ひとしきり笑ってからタネ明かしをすると、奏はどうにか話せています、みたいな途切れ途切れの声で申し訳なさそうに言った。街灯に照らされる奏の顔は耳まで赤い。さすがに十月最後の夜は寒いよなぁ、と思う。
「ん?ああ、それオレがもらったやつ」
「そ、そんなっ! だってそれじゃセンパイの分が……」
 奏にあげた飴は今日までやっていたハロウィンイベントのおまけみたいなものだった。かぼちゃの形をした小さなその飴は少しだけ余って、バイトのメンバーの手に渡っていったのだけれども例に漏れず奏はその展開に乗り遅れていた。本当に放っておけない、大学でもそんな調子だとしたらと考えると心配になってくる。
「あはは、気にすんなって!お前今日頑張ってたじゃん、ご褒美的な?アメ一個でガッカリするような小さい奴じゃねえぞオレだって」
「そんなこと……。ありがとうございます……。嬉しい、です」
 そう言うと奏はまた俯いてしまった。奏といるとなんだか、小さな弟ができたような気分になる。一人っ子の自分としてはかなり新鮮な気持ちだ。もっと奏の喜ぶところが見てみたい、なんて思うのは明らかに兄バカの心理なんじゃないだろうか。
「アメで喜ぶなんてお前も欲ないなぁ……じゃ、クリスマスはもっといい物やるかな!お前が頑張ったら、だけどなー」
「え、あ……」
奏は何とも言えない表情をしたのは見えたが、自分でクリスマスという言葉を口に出すと同時に去年の光景がフラッシュバックする。地獄のトナカイバイトの後、当時付き合っていた彼女と一緒に夜の街に繰り出して二人で朝まで遊んだのだ。彼女には数カ月前にフられてしまって、今年のクリスマスは一人で過ごすことになっているのを思い出して寂しさがこみ上げる。駄目だ駄目だ、そんなだから『女々しい』って言われてフられるんだオレ! ふっ切るように声を張り上げた。
「今年はもう彼女もいないし、オレはバイトに生きる! 稼ぐ! 遊ぶ! 決めたんだ! というわけでお前も一緒に頑張ろうぜ、な?」
「あ、はい……」
寂しい宣言に奏は少しだけ悲しげに顔を歪ませた。おいやめてくれ寂しいってことはオレが自分で一番わかってるから。お前まで引かないで頼むから、オレ泣いちゃう!
「なんだよ暗い顔して。そんなにクリスマス憂鬱か? いっしょにどっか遊びにでも行くか?」
一人で勝手に悪くしてしまった場の空気を変えたくて歩き出しながら奏のことに話をすり替える。あ、ちょっとずるい先輩かもオレって。自分が一人身だからって勝手に後輩のクリスマスに予定突っ込むってどうなの。後ろから飛んでくる驚いたような声に苦笑する。
「え……。センパイ今、クリスマス働くって言った……」
「来月のシフトまだだろ? クリスマス前後はシフト詰めて、んで当日はどっか行こうぜー、って、お前も男二人のクリスマスは嫌だよな普通に……ごめんごめん」
まあ何か言い訳して断るよなあ。そう思いつつ言い終わったその瞬間、奏にしては大きい声で予想外の答えは返ってきた。
「そんなこと全然っ! あ……。いや、あの……。せ、センパイこそ、おれと二人とか、つまんなくないですか……」
 え、なんで? 断らないか、普通。予定の有る無し関係なしに、ただのバイトの先輩だぞ? しかも男。お前の大学最初のクリスマスそれでいいの?
「え、あ、ああ……お前がいいならオレはいいんだけど、ていうかオレが誘ったんだし。ホントにいいのか?」
「あ……。はい……」
 自分で誘ったくせに少し動揺しながら返すと、奏はまたいつものように俯きながらこくんと頷いた。ホントに乗ってくれるとは。しかし奏本人がそう言ってくれるんだからここは喜ばねばと思い直し、ぐっと拳を握って冬になりかけの空に突き出す。
「よっしゃ! じゃあ色々店回ってクリスマス当日も働いてる世の店員を御苦労さまって見つめる悪趣味ツアー行こうな!」
 そういえば去年だってそんな名目で彼女と街を歩き回ったのだ。自分は夜まで働いてはいたんだけれども。成長しねぇなあオレ、と心の中で自嘲して笑えば奏もくだらない企画に笑った。
「そんな意味わかんないことするんすか」
 さすが奏だ、オレも正直アホらしいと思うし客がそんな魂胆でクソ忙しいクリスマスにやってきたらぶっ飛ばしたくなると思う。心で同意しながら口ではその魅力をたっぷり語ってやる。
「何言ってんだ優越感ハンパねえぞあれ! 今から楽しみにしとくから奏、ちゃんとシフト出しとけよー」
「はい……。わかりました……」
 嬉しそうに何度も頷く奏は笑顔でさらに付け足した。
「あれですよね、それでおれらは世のリア充に憐れまれるんすね」
  誘った以上は巻き込んでごめんなさいなんて言えるわけがない。あくまで楽しみに行くのだ。せっかくのクリスマス、楽しまなければならない。苦笑する奏の背中をぽんと叩く。
「おい寂しいこと言うなよ、一人ならそうだけど奏がいるなら十分オレだってリアル充実だっての!」
ばかはオレです、どう見ても。なんで奏はこんなに嬉しそうな顔してくれるんだろうか。オレなんかと一緒でいいのかなこいつ、なんて思いながら言うと、奏は急にぼうっとしたように大人しくなってしまった。どうしたんだろうと表情を伺おうとすると顔をまた俯かせてしまう。
「……そ、そんな冗談ばっかいわないでください」
  どことなく、既視感。頭の端で懐かしい声が聞こえる。そんな冗談ばっか言わないでよ、見た目チャラいと思って簡単にそういうこと言ってさ。無理しないほうがいいよ、本当はそんなんじゃないんでしょ?
「冗談のつもりはあんまりないんだけど……」
 一瞬思考をやめた頭を反射的にはたいて起こす。何考えてんだオレ。今は奏としゃべってんのにそういうの失礼だろ。あいまいに笑って言葉を探す。
「しっかし奏は固いよなー。そんなだからかわいいだのなんだの言われるんだよ」
 照れくさそうに奏は笑う。
「そんなこと言うの、センパイだけっすよ……」
「え、そう?じゃあオレってオンリーワンなわけだ!」
あの子のオンリーワンにはなれなかったんだけど。精一杯背伸びした結果女々しいなんて言われてフられた情けないオレにそんなこと言われて、奏は嬉しそうに笑う。
「……なんか笑えてきた」
 ふとわき出た笑いの衝動は急激にせり上がって簡単に口から飛び出した。はは、と流れに任せて笑うと奏は拗ねたような声で抗議してくる。
「な……。もう、からかわないでください……」
「おうー、ごめんなー」
 ホント、駄目な先輩でごめん。笑いは収まる気配を見せず、むしろ拡大の様相を見せつつあった。こんなに笑うのも久しぶりだと思う。その様子を見て奏も呆れたように小さく笑う。
「いえ、別に……」
「でもお前といると楽しいっていうか、楽なんだよな。なんでだかわかんねえけど」
 本心だった。背伸びでもなんでもない、これがオレの本心。確かめるように何度も頷く。自分の言葉と気持ちに確信を持てなかった去年の自分とはきっと、もう違う。笑いの波が少し落ち着いてようやく言えた言葉を何度も反芻する。じっとこちらを見つめている奏に少し照れくさくなって笑いかけた。
「クリスマス忘れんなよー」
「は、はい……」
 こくりと頷く奏にうん、と自分も頷く。周囲に目線を向けるといつの間にかいつもの別れの交差点に差し掛かっているのに気がついた。通り過ぎるところだった、もっとしっかりしなきゃいけないなと思う。
「んじゃ、オレ家こっちだから。気をつけろよー!」
 いつも通りの別れのあいさつに奏はぺこりと頭を下げる。そんなに思い切り礼しなくてもいいのにな、会釈程度でいいのに。やっぱり真面目というか、なんというか。
「あ、はい。……お疲れ様でした」
「おうお疲れー、またな!」
 ぶんぶんと手を振ってから、家へと向かう一歩を少し大きめに踏み出す。家に帰ったらまずパソコンでも開いて考えてみようと思う。
「ま、また……」
 二ヶ月後、小さく背中に響く声の主を一番先輩らしく、笑顔にしてやれるような計画を。


あとがき

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