しんしねこ




(※注意:読む方によっては不快感を得る可能性があります。)
 
  ちょうど時計の針が、午後6時を指した頃だろうか。
オーブンレンジから焼き上がったばかりのスポンジケーキをキッチンへ運び終え、リビングに置かれた冷蔵庫からデコレーション用の生クリームを取り出そうとした時だった。
「我々はそのような不当な暴力に屈しない!」
 突然、冷蔵庫の下の床に面した小さな隙間からそんな勇ましい声が聞こえてきた。生クリームが入った絞り袋を右手に持ったまま、立ち尽くしてしまう。
「我々がいつ、おまえたちに刃を向けたというのか! 我々にはおまえたちに淘汰される理由がない」
 凶器など何も持ってはいないのだが……しかし、ただ冷静になっているだけではいけない。なんとかして追い返さなければならない。
「そんなものは詭弁よ! あなたたちの姿を見るだけで私たちの平穏は脅かされるのよ」
思わずコイツの口調がうつってしまう……でも、今日は本当に大切な日なんだからアンタ達が居ちゃマズいんだ。
「黙れ! 物事を外見だけで判断して敵視する、そんな非論理的な輩に平穏を語る資格はない」
黙るのはアンタらの方だ……一体、いつから人と会話できるようになったのだろうか。頼むから今日くらいは大人しく帰ってはくれないだろうか。今日は、結婚して一年目の旦那の誕生日なんだ。しかし、彼らは言語が理解できるだけで、けっしてエスパーなどではなく、私の心の声が聞こえる訳もなくて……。
「そんなうわべだけの理論で、我々は生きるための権利を奪われようとしているのだ。これが、横暴でないというのなら、いまお前が我々に向けている毒ガス兵器は何だ!」
どくがすへいき? もしかして、絞り袋の事を言っているのだろうか?
手が届く範囲に武器がない今、この勘違いを生かすほかにこの場を乗り切る手段はあるまい。さあ、怯えて巣に帰れ。
「黙りなさい!」
力一杯叫ぶと、絞り袋の先端を奴らへ向ける。そして、続ける。
「私たちにだって自分の家を守る権利と、そして義務があるの。解ったらさっさと出て行きなさい。さもないと、今度こそ……撃つわよ」
決まった。完璧な演技力だ。これでも、高校時代は演劇部の部長を担っていたんだ。今だって、ベッドの上で旦那を騙し続けている現役の女優だ。やっと会話がまともにできるようになった程度じゃ、簡単には見破れまい。
「ふん、よかろう。結局のところ、やはり我々とお前達の主義主張は噛み合わぬようだな。ああ、至極残念だ」ほれみろ、ちょろいものだ。
「いいだろう、撃ちたまえ」
 ――え?
「脅しじゃないわよ?」もう一押し、絞り袋を近づける。
「構わないさ、撃ってみろ」
冷や汗が頬をじわりと伝う。おかしい。どうして一歩も引かないのだろうか?
私は今、『生クリーム入りの絞り袋の先端(毒ガス兵器の銃口)』を向けているんだぞ?
本来ならもう命乞いを始めている頃合いだ。それとも、持っている物が毒ガス兵器ではなく絞り袋だという事がバレてしまったか?
「お前とて薄々感づいているのだろう? 我々は長らくお前達に虐げられてきた。その長い苦境の歴史が、我々にそんな毒ガスなぞ物ともしない強靱な肉体を与えたのだ」
「くっ……!!」もはや、演技どころではなかった。
彼らにとっては、私が向けている物が毒ガス兵器だろうが、生クリーム入りの絞り袋だろうがどうでもよかったのだ。
「驕りが過ぎたな人間。さぁ、もう一度言うぞ」
彼らは、あくまで私を一人間として試していたに過ぎなかったのである。
「撃ってみろ、人間!」
一息おいてそう叫び終えると、彼らは冷蔵庫の下の影より2本の角を振り乱し、世界を茶黒に染めるように無数の闇の群集となって現れる。
最悪の事態だ。もはや私は、今日という不幸を呪うことしかできないのか?
しかし、なぜ今日なんだ? 現れるなら明日でも良いだろう!? 私と会話するなら昨日でも良いじゃないか!
今日は、心から愛している人の大切な日なんだ。だから、絶対にケーキには触れさせはしない! 邪魔させは、しない!!
「うわああああああああああ!!」
雄叫びをあげ、たまたま目に入ったフライ返しを手に取ると、ワラワラと現れる光沢を纏った者らへと矛先を向ける。
「火蓋は切られた! しまって行くぞ、兄弟達よ! 今宵は大盤振る舞いのパーティだ!!」
 毒ガス兵器を防ぐ強靱な肉体を持ってしても、古来より人間が扱う鈍器には敵わない……本当に驕りが過ぎたのはお前達の方だ。
心の中でそう嘲笑うと、スポンジケーキへ飛び掛かる茶羽を広げた不幸の使者達へ、私は全力でフライ返しを振るうのだった。

              


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