急募・保健室での安全な時間の過ごし方

   あほこ

『三年五組、戸向居早汰くん。放課後至急保健室まで……』
 あまりに聞き慣れ過ぎた校内放送にもはや教室の視線が俺に集まることすらない。ああ、いつも通りね。そんな反応。完璧にBGMと化してしまった呼び出しの合図に俺は今日も頭を抱えた。
「ちくしょー!」
 それこそいつも通りに。

* * *

「で、何が呼び出しですか何か用事あるなら早くしてください、ていうか離せバカ!!」
がっちりと後ろから回された腕は、俺の体の自由を奪うと共に不快という追加効果を現在進行形でもたらしている。
「おや、随分とつれないことをいう。せっかちはいけないよ?」
しれっとそんなことを耳元で言ってみせる男にぶわっと鳥肌が立った。危ないこいつ。いやもうわかりきっているけど、本気で危ない。腕や足をばたつかせて必死で抵抗しているのになぜかコイツ、まったく身じろぎもしないのだ。
「うぜえええええ!!! 何が!! せっかちだ!!! 生徒を後ろから羽交い絞めにして常人ぶんな変態教師!!」
そう、その危険な変態男が普段は温厚で潤いに飢えた男子高生に笑顔を振りまく養護教諭だなんて信じたくない。というかあってはならない。このあってはならない養護教諭、本名を清水皐と言うのだが、全力の抗議も頭が可哀想なことになっている変態にかかればこの通りになってしまう。
「ダメだよ早汰。キミと私の関係を生徒だの教師だのくだらない身分でくくっては」
暖簾に腕押し、糠に釘。気が抜けるというのはきっとこういうことだと思った。抵抗をやめて冷静に論戦にモードを切り替える。触れている腕の力が一段階強くなったことには気がつかないフリで通させてもらうことにした。
「先生気持ち悪いです。お願いだからそのままの関係に落ち着かせてくださいそのうち自分卒業するんで」
「随分と寂しことをいうね? 今日の早汰くんはどうしてそんなにご機嫌ナナメなのかな?」
事実を述べているだけなのに、一段と芝居がかった悲しそうな猫撫で声が返ってくるのがまた腹立たしい。実際昨日だって一昨日だってこの調子である。
「全く持って通常営業なんですけど……いいから離してくださいよ、早く帰って寝たい」
「可愛いね。私を誘っているのかな?」
うわあ。
「どうしてそうなる。気付いてると思いますけど、この角度ならアンタ殴れるんですよ、今すぐやってやりましょうか」
変態の細めの腰になら肘で一撃与えられるように思う。ちらりと視線を向け、様子を伺った上で狙いを定めておく。
「それでも大人しく私の腕の中に居てくれるということは、それはつまり愛情表現と受け止めてもよいということだよね」
 変態は、信じられないことに耳元に口を近づけて最高に気持ち悪い言葉を言ってくれた。ぞわりと背筋が凍る。これ以上この状態でいられたらあまりのショックで立っていられなくなる気がして、早口で言葉を返す。
「いまはまだ取り返しがつきますがそれ以上変なこと言ったら本気で嫌いになりますよ。毎日顔合わせる度にザキかけますよ、ムドでもいいです」
人間の念というのはすさまじい。実際に幼い頃近所で有名だった迷惑なオッサンの後頭部に毎日呪いをかけていたらそこからハゲたという伝説を持っている。出来る限りのドスの効いた声で脅すと変態はそれまでが嘘のようにあっさりと腕を解いた。
「それは怖いね」
「本気ですから。末代までハゲろと心の底からの思いを込めて呪いますから」
どこまでも本気だった。距離を取ってまっすぐに変態を見つめて言い放つ。心の中でも叫ぶ。末代までハゲろ。
「熱烈の愛の告白をありがとう、嬉しいよ。残念ながら私の家系にハゲは居ないのだけれどね」
どうしてそうなった。そしてアンタの家系や遺伝の話もはっきり言ってどうでもいい。
「清水家のハゲ伝説はアンタから始まるんですよ、良かったですね。なんでコイツなんかが人気あんのかホントわかんねぇ……」
 どう見てもただの変態なのに同級生たちは『さっちゃんマジかわいい』と評判なのだ。彼らは男まみれの環境で頭がおかしくなってしまったのだと思う。
「キミの想いと引き換えになるのなら、髪ぐらいあってもなくても構わないけれどね。おや、妬いているのかい? 何も心配いらないよ。私の心はキミだけのものだからね、可愛い早汰」
そしてその『さっちゃん』がひどく自分に絡んでくるのはもっとわからない。
「気持ち悪いです、今すぐハゲ散らかってください。アンタの相手してると疲れるんですよ、もう帰っていいですよね?」
一応、保健委員として呼ばれた自分への用事はあった。備品チェックの書類へのサイン。毎日呼ばれて毎日コレなのだから、コイツはきっと自分のサインが必要な書類を毎日小出しにしているのだ。腹立たしい上にこざかしい。やるべきことはやったのだからと踵を返して保健室の出口に向かうと背中に声が飛んできた。
「それなら少し休んでいくかい? 幸いベッドもあることだし」
 死ね変態。
「あぁ、ちょうど美味しいチョコレートケーキがあるんだった」
 聞き捨てならないセリフにうかつにも足が鈍る。
「キミの好きなアッサムでも淹れようか」
情けなくもぴたりと歩みは止まってしまった。卑怯だ。たっぷり十秒かけて一人寮の部屋でする今日の復習と、変態がオプションでついてくるチョコケーキのティータイムを天秤にかける。悔しいが結果は目に見えていた。
「ベッドの上で物を食べるはマナー違反って言われなかったんですか? それならいただきますけど」
 なんとか冷静を装って振り返りつつ言葉を選ぶ。だって仕方がないのだ、コイツが選んでくるものはどれもこれもとてもおいしい。食べ物に罪はない。
「おなかを満たしてからベッドの上というのもいいと思うけどね。なら準備をしようか。少し待っていてくれるかい?」
「速攻で食べたもの吐くことになりそうですけどね、そんなことになったらアンタの腹蹴り飛ばしてやりますから」
唐突にとんでもないことをのたまう変態にかっと体が熱くなった。精一杯の憎まれ口と予防線を張って噛みつく。
「いけない子だね。一体何を考えているのかな?」
……やられた。体のてっぺんまで熱い血液が通うのを感じながら、冷静さもの何もかなぐり捨てて叫ぶ。
「付き合ってやるからさっさと準備やら何やらしろ変態教師! 死ね!!」
「はいはいお姫様、よろこんで」
またそんなことを言われて泣きそうになった。コイツの目に俺ってどんなふうに映ってるんだろうか。さっそくポットに手をかける教師は読めない笑顔のままだ。
「誰がお姫様だよ、ホント気持ち悪いことばっか考えてますよね先生って。そのくせお茶淹れるのだけは上手いし」
変態はぼそりとした発言の、少しのプラス要素も見逃さなかった。
「お褒めにあずかって光栄ですよ。愛しい早汰」
「やっぱさっきの撤回!アンタ気持ち悪いです全面的に!バーカ!」
 これがいつも通りなんて胃が痛くなりそうだけれど、明日は一体なんのお菓子で自分を足止めしてくるのだろうかなんて考える自分も相当変態に毒されてきているんだろうと思う。


あとがき

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