暗い海と、女と女の子

   ヨコチ

#1

 民家の間の細い路地に、海からの潮風が吹きぬける。その風が通り過ぎるたびに、道の先にあるまだ見えない海のにおいがした。
 気味が悪いくらいに辺りに人の気配は無くて、家々から漏れる明かりもまばらで少し心細い。島民の半分以上が漁師だというこの日乃島ではそれが普通なのだと、四年ぶりに会った叔母さんがそう言っていた。
 まばらに設置された街頭が作り出す人工の光が、味気なくもそこはかとない安心感を与えてくれる。暗い夜道でコンビニを見つけるとこんな感じなのかもしれないと思った。
夏にしては涼しくて、散歩をするにはいい夜だった。実際、ここに来て半ば日課になりつつある夜の散歩のお供であり相棒の梅丸(五才・♀)も、いつもより少しご機嫌なようだ。
 丸まった小さな尻尾をパタパタと振っている様子は、何と言うか、微笑ましいというか、正直可愛かった。
 少しの間だけその様子を観察していると、リードを引く手が止まったことに気付いた梅丸が『どうしたんですか?』とでも言いたげに小首を傾げて見上げてくる。
あぁ、可愛いなぁ。思わずため息が漏れてしまう。
「ごめんね、行こうか」思わず声が弾む。
 緩やかな傾斜になっている坂道を、ビーチサンダルを履いた足が踏むたびにペタペタという音がして、どこか間抜けな感じだ。たいして手を加えていない自分の顔もかなりの間抜けっぷりかもしれない。
 この島に来て気に入ったことの一つに、人の視線に気を回すことが少なくてすむということがある。ただでさえ人口の少ないうえにこの島には中学校までしかなくて、それ以上の、つまりはあたしと同い年以上の人たちは、本土にある全寮制の高校に行っていてお盆まで帰ってこないらしい。
 高校に行かず漁師をやっている人もいるようだけど、昼間は寝ていることが多いらしくて会うことは無いみたい。
 一部の若者(あたしが言うのもなんだけど)の他にはオジサンやオバサン、もはや迎えを待つオジイサン、オバアサンしかいないので、あたしはこうやって素の顔で散歩ができるのだ。
 人目も気にせず、短パンにTシャツという適当な格好で出歩けるということが、思っていたより気持ちいいということが分かった。
 地元では知り合いと遭遇したときのために、コンビニに行くときですら服装や顔に気を回していた気がする。ものすごく杞憂なのは自分でも気付いていたけれど、どうしても頭から「もしかしたら」という言葉が離れてくれたことがなかった。
 そんなものからの開放感もあって足取りは軽かった。密集した家々の間を張り巡らされた蜘蛛の巣のような細い路地も、そろそろ終わろうとしている。
住宅街(時代を感じさせるボロ屋ばかりだけど)を抜けた道の終わりに、少ない観光客を泊める宿の密集する港が見え始めた。
見えた途端に潮の匂いが強くなったような気がする。路地を抜け広くなった視界の先には、道路を挟んで船が並ぶ港と、墨汁のように黒々とした海が広がっている。
道を渡り港へ近寄る。
ここにある船は、観光客や島民を本土に送る海上タクシーがほとんどで、波に揺られる船がぷかぷかと上下しながら、出しっぱなしの旗を風に揺らしている。周りにはやっぱり明かりはほとんど無くて、ぽつんと置かれた自販機と宿の玄関の照明、そして月が頼りなく光を放っているだけだった。
 船着場はそれを囲うように防波堤が作られていて、海に向かって突き出した部分の、口の開いているところに門があり、今はその門が半分閉まっている。最初にここに来たときは、上から見ると海の一部を切り取ったみたいに見えるんだろうなと、船の中で思った。
いつものように梅丸を近くのベンチに繋いで門のほうへと歩いていく。横からさえぎるものの無い風が直接吹き付けて、肩まで伸びた髪を乱した。ゴムか何かでまとめてくればよかったかもしれない。
そろそろと防波堤の先端に向かい、海を見下ろす。下にはテトラポットが積んであって、波がそれにぶつかって飛沫を上げてる。蠢く波と海の輪郭を夜の暗さがあいまいにして、どこか生き物を見ているみたいだ。
毎回思うのだけれど、夜の海は少し恐い。深くて暗くて、それでいてとても静かなそれは、水平線によって境界が無くなった空、もしくは宇宙に良く似ていると思う。
よどんだ闇というよりは、澄んだ無という言葉が似合いそうだった。底なしに深いようで、何もかも吸い込んでしまいそうな印象がある。近くに立っていると吸い込まれた後の自分の死を連想してしまう。
それでも、何もかも飲み込んでしまいそうな暗い海を見て、安心感を覚えるのは嘘じゃない。
(母なる海って言葉も、あながち間違いじゃないのかも)
何故か散歩のたびにこうして近くまで見てしまうのは、その夜の海の持つ不思議な魅力か、それともあたしが物好きだからだろうか。
(ひょっとしてあたし、自殺願望でもあるのかな? )
「……まさかね」
自殺なんてくだらない。心の中でそう断言してやった。
あたしは自殺する人の気持ちなんて分かりたくもない。
W生きてるうちにW死にたくなるほどあたしは生きていないし、嫌なことは山ほどあるけど、少なくとも死んで得することなんてあたしには見当が付かないのだ。
 生きてればそのうち死ぬ。だから生きているうちは生きていよう。どこから見つけてきたのかは覚えていないけど、いつからかあたしの中にはそんな考えがあった。
 「まぁ、だからなんなの? て話だけど……」
 海に向かって一人、誰に言ったわけでもなく呟いて、気を取り直して散歩を再開させようと立ち上がって梅丸のところへと戻った。
 「お待たせ、梅丸」
 梅丸を繋いだベンチからリードを外して、目の前に走る道路を左に曲がる。いつもなら右に曲がってそのまま海沿いの道を歩いていって、島唯一の小学校へ伸びる坂を上って、叔母さんの家へと帰るのだが、今日はコースを変えてみることにした。
 港にはすぐ横に隣接された砂浜がある。この島の数少ない娯楽の場所らしい。
 一応、観光客が遊べるようにと浮島があったり、パラソルを貸す売店や、監視搭のようなものがあるけど、見た感じではあまり役に立っている様子は見られなかった。
 初めから降りてみる気は無かった。
ちょうど港と同じように砂浜から沖までを切り取ったようなつくりになっている。
港と違うところは、沖にテトラポットが詰まれ、その後ろに棒かなにかで、人が流されて沖に出てしまわないように張られた網があるところ。
ただ広いだけで、人のいない砂浜はどこか寂しくて、足跡の付いていない砂浜がよりいっそうそれを引き立ててる。ごみが無いことはせめてもの救いかもしれないけど。
そんな砂浜に一人で下りていったら、あたしまでその寂しい風景の一つになってしまいそうな気がして嫌だった。だから、あたしは砂浜に沿って作られた遊歩道を歩くことにした。
 少し高いところから見る夜の砂浜は思っていたより明るかった。淡い月の光を反射した白い砂は、緩やかな風にさらさらと運ばれている。
 巻き上げられた砂が歩道まで届き、足とサンダルの間に入る。叔母さんの家に入る前に水で流さなくちゃ。
 ペタペタとビーチサンダルが鳴る。その他にあたりに聞こえるのは不定期な波の音だけ――――。
 (…………ん?)
 足が止まる。誰もいないと思っていた孤独な砂浜に一人、誰かが座っている姿が目に入ったからだ。
 最初は、漂着したゴミか何かだと思った。それにしては大きすぎる。
 次に幽霊か何かだと思ったけど、足があるし、何より人間らしすぎる。
 男の人だった。離れている上に夜だからはっきりとは見えないが、もしかしたらそんなに歳は離れていないかもしれないと、後姿から何となくそう感じた。幽霊かもしれないと思ったのは、その後姿がどこかおぼろげに見えたから。
 (瞬きした内に消えたりしないよね?)
その人はただじっと海を眺めていて(座ってるだけかもしれなかったけど)、動く様子が無い。何をしてるんだろうと、しばらくぼんやり見ていたら梅丸が寄ってきて鼻を鳴らした。
 『早く行きましょう」という意思表示だと解釈して「はいはい、わかったよ」と適当に返事した。
 ちらりと目を向けると、その人はまだそこにいた。誰もいない砂浜で一人、海を眺め続けるその姿は、少しだけ絵になるような気がした。
 かすかに後ろ髪を引かれたけれど、帰って早くシャワーを浴びたいという欲求の前にそんなものは掻き消えてしまい、その日はそのまま家に戻ることにした。

 #2
 
 夏は女の子に勇気をくれる。
 
この島で娯楽といえば海で遊ぶくらいで、夜になれば静まりかえり朝早く起きる。
 そんな中であたしは日がな一日部屋でぼーっとしているか、叔母さんの家事を手伝ったり世間話をしたりする。島に来て二日目から始めた梅丸との散歩も、その暇を埋めるためのものだ。
 何もすることがない。そう、今のあたしにはほぼすることが無いのだ。
 青春真っ盛りの十六歳。誰が言ったのかは知らないけど、あたしみたいな年齢のことを花も恥らうというのではないか?
 貴重な青春をこんなことに消費、いや、浪費してしまっていいのだろうか? いや、いいはずは無いと思う。
 じゃあ何をするか。
 「――――恋だ!」勢いの割りに声は小さく、あたしは一人言った。すべてを飲む込み様に平然としている夜の海に向かって。返事の代わりに飛沫が飛んできた。
 そう、あたしは恋をしてみようと思う。あわよくばだけど。
初めて見かけた日からはや五日。その人は毎日浜辺にいた。何をするでもなくただ海と向き合ってじっと座っている男の人。
 最初は浜の外から見ているだけだったけど、日を追うごとにその距離を縮めて、少し離れた位置からあたしは彼を観察するようになった。
 この島で生活している人にしては珍しくその肌は白くって、言い過ぎかもしれないけど丁度月明かりにさらされた砂浜みたいだった。
 顔や格好からうかがえる雰囲気はどこか垢抜けていて、ひょっとしたらこの島の人ではないかもしれない。
 その顔に浮かぶ儚げで物憂げな表情は、こう……何というか……乙女心をくすぐるものがあったり無かったり。
 とにかく、あたしの求めるひと夏のホットロマンス(死語かもしれない)にぴったりの人だった。
 夏は女の子に勇気をくれる。
 夏の女の子は少しだけ、いつもより勇敢になれる。
 そうやって恋という名の素敵な障害に突撃して、ある娘は散り、ある娘は敗れ、そしてまたある娘はその先にある素敵な夏の思い出を手に入れることができるのだ。
 敗れた散ったという思い出も、熟成させれば人生に欠かせない失恋というスパイスになって、その人の一生をおいしく味付けしてくれる…………はずだ。まだあたしは経験したこと無いけど。
 だからあたしも、自分の中の小さな自分の、
「やめなよ、女の子から話しかけるなんてはしたないわ!」や
「そんな恋愛はお互い疲れるだけよ!」などという弱気と弱音と正論を握りつぶして、恋というある意味修羅の道(?)を進むのだ。
 勢いよく立ち上がり、回れ右。誰もいない夜の埠頭を弾むように歩く。これから始まるかもしれない事に対する期待と妄想で足取りは軽かった。
 端から見たら楽しくなれる薬でもキメた人に見えたかもしれない。
 今日はほんの少しだけ、うっすらと化粧をして、短パンからジーンズに履き替えた。足元も、今日はビーチサンダルじゃなくて少しだけヒールの付いたサンダルだ。
 人に見られないことが前提の格好もそれはそれでいいものだけど、やっぱり女の子はおしゃれをしなくちゃだめだ。
 何というか、気持ちが戦闘用に切り替わる気がする。
 ベンチに繋いだ梅丸のリードを外して、港を出て正面を走る道路を左に曲がる。
案の定、見えてきた砂浜には今日もあの人の姿があった。
 ああ、一体なんて名前なんだろう。
 道路側と砂浜を仕切るように作られた防波堤の階段を登って(梅丸は器用に後を付いてきた)、大き目の段差を下って砂浜に出た。
 砂が入ると嫌なので、サンダルは段差のところに置くことにした。履いてきた意味があんまり無い。
 へぇ……これはやっぱり……。
 美術の授業でしか描かないけど、この夜の砂浜は絵になる景色だと思う。砂と海、そして月光、それぞれがお互いの中に溶け合って、不思議な調和を作ってる。光を受けて淡く映る白い砂と、夜の暗闇を吸い込んだような海が妙なバランスで隣り合っている。
 イメージとしては、漫画とかに出てくる中国の陰陽のマークみたいだ。
 着ているTシャツが黒だったので、さながら、あたしとあの人は陰陽の両側にそれぞれ打たれている点みたいに見えるかもしれない、今は白のほうに両方の点があることになるけど。
 砂を踏みしめながら彼に近づいて行く。夜の砂浜の砂はひんやりしていて、思っていたより気持ちがよかった。
 近づくにつれて、男の姿がはっきりが見えてきた。
背は……あたしより高いくらいだから男子の平均以上はあるみたい。こざっぱりとした白いシャツに、淡い色のジーパンを合わせて、砂浜の上に体育座りのような形で座ってた。
 今までで一番の接近に胸が高鳴る。
 こちらが声をかけるのが躊躇う位、その人は海をじっと眺めてる。
 (それでも、話しかけないと何も始まらない!)
 そう、これが劇なら今の場面はプロローグ。まだ序章も終わってない。失恋も恋愛も、結末がどうであれ始まらなければ絶対に経験できない。
 勇気出せあたし!
 そんなことを考えているうちに、いつの間にか男の真後ろまで来ていた。どう話しかけたらいいんだろう。
 ここまで近づかれてなぜか彼は気付かない。相当に無防備な人だった。『はやく散歩を続けないのですか?』とでも言うように、あたしを中心にぐるぐる回る梅丸にも気付かない。
 頭の中でいくつかサンプルを考えてみる。

「こんばんは! いい月夜ですね!」
 ――――あたしがもしいきなりこんなことを言われたら、多分即効で逃げると思う。
 
「隣、いいですか?」
 ――――いくないと思う。これもかなり怪しい人だと思う。
むしろ何も言わずに隣に座るのは……だめだ。成功してもそこからどうしたら良いか、人生経験の少ないあたしには考え付かない。
あぁ、もう! どういたらいいのよ!? ぐしゃぐしゃと足元の砂を踏みしめながら、何も出てこない脳みその入った頭を抱えた。
 始まらない。あたしの夏のホットロマンス(やっぱり死語かもしれない)が始まらない! 舞台もあって役者もいる。
 脚本ももしかしたら出来上がっているかもしれないのに、肝心の開幕のベルが鳴らない。
 あたしの恋物語はこのままこうして頭を抱え、地団太を踏んだまま終わるの? 終わってしまうの?
「……………………」
 不意に、誰かの視線を感じた。何か、と表現しないということはその視線が人のものであるということで、この砂浜に人とは二人しかいなくて、そんなことも気にせず、梅丸は流木で遊び続けてて…………。
 彼が、こちらに振り向いていた。
 不思議そうに首を傾げて、珍しいでも見るような、それでいて好奇心とは別の感情が伺える瞳であたしのことを捕らえていた。
 時間が止まって、その中で思考がハムスターの回す車輪みたいに高速でぐるぐる回る。
 (気付かれた!? 気付かれました! どうしようどうしよう、さっきまであたしが考えてたシュチュエーションは彼があたしに気付いていないことが前提で、今はその彼があたしに気付いてしまってるわけで、突然の新展開にアドリブで乗っかれる程あたしは応用力なんて便利なものはもって無い訳で、ああ! 時間が経つほど気まずくなっていく気がする! どうしたらいいか分からない分からない分からな――――――)
 
 「……あのぅ、何してるんですか?」
 それが、そのときのあたしの精一杯でした。開幕のベルと同時に、客席からの大ブーイングが聞こえた気がしたのは、どこまでもあたしの気のせいだと思う。

 #4
 
 彼の名前は落窪京介というらしい。
 初めて顔を見たときは歳が近いかもしれないと思っていたけど、実際は既に大学を卒業しているらしく、最低でも五、六年は離れているようで、あたしから見ればお兄さんといった具合だ。
 二十代の中盤辺りにいるはずなのに、その顔にはまだ老いの兆候は見えない。得な人だと思うけど、こういう人に限って老ける時は一気に老けるのかも。
 はじめからどこか垢抜けたような気がしていたけど、京介さんはやはり島民ではないらしい。
一年ほど前から港の宿を借りて生活をしているらしくて、その職業はなんと作家さんだという。
 作家さんに会うのは初めてで無駄に驚いたら、
「そんなに大層なものじゃないよ」と笑われて恥ずかしかった。
ペンネームを聞くと、かすかに聞いたようなことのあるというか、ニュース番組か何かで取り上げられていたような気がする。
 後で叔母さんに聞いたら、島ではちょっとした有名人だそうだ。
 昼間は宿で小説を書いて、夜はこうして海を眺めに浜辺に出てくるという。
 「海を見てると、なんだか意識が海に持っていかれたみたいに、周囲のことに気が周らなくなるんだ」
 真後ろまで接近しても中々気付かなかったのはその為らしい。
 始めて話しかけた日から、あたしは京介さんのところに足を運ぶようになって、散歩がそのついでみたいな形になった。行って何をするわけでもないのだけど。
彼は基本的に無口というか、正直口下手だ。だから会話の際は、あたしが質問して、彼が答えるという形になることが多かったけど、それはそれで楽しい。
 彼は素敵だった。穏やかで優しくて、どこか浮世離れした雰囲気に惹かれた。学校の先輩と付き合ってる友達も、こんな気持ちだったのかもしれない。
 何も話さずただ二人で海を眺め続けるなんて日もあったけど、それも苦痛じゃなかった。
ずけずけと自分の境界の内側に入ってくるような人達とは違う、そんな距離感が心地良かったのかもしれない。
 遠くにあるものを見るように目を細めて、海を眺める姿が一番彼らしいと、勝手にあたしは思っていて、その姿が好きだった。
 段々、不思議なくらい彼に惹かれていくことを自覚してたけど、全然嫌じゃなかった。

 「……あ、…………えっと……」
 あたしが砂浜に通うようになって六日が過ぎた頃。その日もあたしは彼と二人並んで砂浜に座っていた。
 心なしか、初日よりその距離は縮んだ気がする。
夏休みの課題について話していたんだけれど、会話の途中で珍しく京介さんのほうから話しかけてきた。
 「ん、どうかしました?」
 「……その、名前」
 作家なのに、彼はたまに主語と述語がはっきりしない。あまり人と話すことに慣れていないそうだ。
 「名前?」
 「そう、君の名前」
 忘れていた。初対面であたしは彼の名前を聞いたのに、自分の名前を言うのをすっかり忘れていた。
 彼も彼で今更な感はあるけど……。
 今の今まで、あたしの名前に興味が無かったのかな? だとしたらそれはかなりショックなことだ。
 「あたしの名前はミチル、カタカナでミチルって書くんです」
 「みちる……ミチル……」
 思うところがあったのか、彼は口の中であたしの名前を反芻して、
 「ミチルか……この海みたいに深くて、でも親しみやすい、いい名前をもらったね」
 何故だか嬉しそうに京介は笑った。無垢というか、真っ白な笑顔だった。向けられたあたしまで「そ、そんなことないですよぉ」と照れて笑ってしまった。
 「ミチルさんは、何でこの島に?」
 唐突な質問に少し戸惑う。とりあえず一番最初に引っかかったところを訂正しておこう。
 「ミチルでいいですよ。年上の人にさん付けで呼ばれると、何だかむず痒いんです」
 「そう……じゃあ、ミチルはなんでこの島に?」
「ああ、実家が全面リフォームすることになったんですよ」
 そう、何を思ったか夏休みの初日、両親が家の全面リフォームを宣言した。工事の前日に。
 当然だけどリフォーム中は家で生活ができない。
それを機にお父さんとお母さんは夫婦水入らず、海外に旅行に行くと言い出した。
 どこにそんなお金があったのかは分からないけど、一ヶ月間帰ってこないという。
お姉ちゃんはサークル仲間と国内をこれまた旅行。大学生の身分で一ヶ月も旅行にいけるってどんなバイトをしてるのか不思議だった。
 さて、残ったあたしはというと(というか知らされてなかった)南の島でバカンスという名目の元、この日乃島に送られたのだ。
最初のうちは両親や姉との落差に憤ったけど、今はソコソコ満足している。
 主に、隣にいる京介さんのおかげで。
 そんなことを、最後の部分を省略して彼に説明した。
 「ひどいでしょう? あたしだけ置いてきぼりですよ! せめてもっと前に知らせてくれればいろいろと予定も立てられたかもしれないのに」
 「大変というか、すごい親御さんだね。そういう行動力は、少し憧れるよ」
 「配慮が伴ってればあたしだって憧れてもいいと思います」
 「そうか……そうかもしれないね」そういって彼は笑って、また海を見た。自然と会話が終わる。
 結局、何で自分は名前を聞かれたんだろう。
話しかけるときに不便だったのか、それとも本当に今更思い出したのか、どちらにしろ、もう聞くような雰囲気じゃないけど。
ふと、今度はあたしから話題を提供しようと思った。
これもまた今更だけど、海を眺めている彼を見て思いついた。話題としてはまあまあだと思う。
「京介さんは、なんでいつも海を見てるんですか?」
 その質問に意味なんて無かった。本当に、思いついたから言ってみただけ。
だからそれに対する彼の返事だって、あたしは予測してなかった。
それが、あたしが彼の境界の内側に踏み込んだ、最初の瞬間だったと思う。

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