朝綺
早朝。
真冬の夜明けは遅くって、お日様はまだ遠い場所でぐずぐずしている。
ほの白い月と星の名残が浮かぶ、藍色の世界。
吐く息がふわり、視界を少しだけかすませて散っていく。
変な時間に起きてしまったせいだろうか。身体はふわふわ軽いくせに、脚だけが妙に重たくて、思うようにならない寝起きの身体を少しばかり恨めしく思った。
通い慣れた道。上り慣れたアパートのステップを踏む。
二階の最奥。遼次さんの部屋。
表札を見上げる。右上がりの独特な癖字で記された「七ヶ島遼次」の文字。その傍らに「坂上るい」というオレの名を、欲を出すなら「七ヶ島」の姓をもらったそれを、並べてみたいなぁとは、常々思っていたりする。
あの人は絶対嫌がるんだろうけど。
口に出してみたことはない願い。お嫁さんになりたいだなんて、さすがにどうなのと思わなくもない。
どうしても少女的になる思考回路に戸惑ったのは最初だけで、今ではそんな自分との折り合いも上手いこと付いている。
だって好きなのだ。取り繕ってもしょうがないし、その必要がないからこそ、自分には彼しかいないと思うのだ。
ドアのすぐ脇に座り込む。尻の下の硬くて冷たいコンクリの感触。寄りかかった無機質な壁のその奥に彼がいる。嬉しくてもどかしくて、でもやっぱり幸福だった。
膝を抱え込んで耳を澄ます。
どんなに早くここに来ても、彼がその生活リズムを崩すことはない。彼が起きだしてオレを迎え入れる準備を整えるまでは、大人しくしている他はない。
早く会いたい。顔を見て声を聞いて、抱きしめて抱きしめられてキスをして。触れ合って温もりを確かめたいけれど。ただ待っているだけのこんな時間も好きだった。
だってもうすぐ彼に会える。目にはさやかに見えぬ砂時計の砂が落ちていく。ゼロになる瞬間を今か今かと待ちわびる。もどかしいドキドキが、嬉しくて幸せ。
***
背中で、人が動きだす気配を感じた。
とん、とん、静かに響くゆったりとした足音。
立ち上がると同時に世界がくらり。ちょっと慌てすぎたみたい。
閉ざされていたドアをじっと見つめて、遼次さんが現れるのを待つ。じりじりと、待つ。
カチャリ。
「遼次さ――」
「どうした」
おはようのあいさつもなんにもなしに、開口一番遼次さんは硬い声を出した。
オレを見るなり渋くなる表情。目がぐっと細まって、普段からいいとはいえない目つきが余計に悪くなる。かっこいい。無精ひげの似合う男らしい彼の顔も大好きだ。
約七時間ぶりになる再会の感動にぽわんとしてしまってから、彼がオレに何か問い掛けていたらしいことに思い至る。
「ふえ?」
「人間らしい返事をしろといつも言ってるだろうが」
気にくわないといいたげな、苦々しい顔つき。
ただ、そこに突き放すような冷たさはないから、親心から出たあったかな教育的指導なのだと思って受け取ってはおく。
「ん(゛)ー。遼次さん難しいこといわないでよぉ」
あったかい気持ちだけはもらうけれど、癖になった言葉づかいを今さら直せるかどうかは別問題だ。
「お前のいう難しいことを全人類がやってのけてんだから世の中捨てたもんじゃねえな」
ため息混じりにオレだけが異種族みたいな言い方をする。バカにされていると感じるのが普通なのかもしれないけれど、オレはオレというモノなのだと認めてもらえたようで少し嬉しい。そんなことを口に出そう物なら、盛大な溜め息を受け取ることになりそうだけれど。
「で、どうした」
「うー? どうもしないよ?」
どうしたんだろ。何があると思ってるんだろ。
重ねて問われても心当たりなんて一つもないから、わからないよと首を傾げた。
「嘘こけ、顔見りゃわかる」
低い囁きが合図だったみたいに、手首に指が絡みつく。とくんと心臓が甘く鳴るのは、遼次さんが自分からオレに触れることが珍しいせいだ。
オレの手首を掴んでいても、余裕で余る大きな手。温かく乾いたかさつく手のひら。
強い力がオレを部屋に引きずり上げようとするから、慌てて靴を脱ぎ捨てる。
「猫の風邪の治療法なんか知らねえぞ」
独り言めいた低い呟きにようやく彼の意図が知れた。
「え? 風邪ー?」
知れたけれど、風邪なんて。
「わかりやすいごまかしは止めろ、話が進まん」
ぴしゃりと叱りつけられた。ひきずられたまま、長くはない廊下を進む。
ずるずる物みたくひっぱられているのに、守られているように感じてしまうオレの感性は何かが狂っているんだろうか。
「誤魔化してないよ」
広い背中は聞く耳持たぬと全力でアピール。
「ヌレギヌだぁ」
顔が赤い、熱があるっていうんなら、そんなの全部遼次さんのせいに決まってる。一緒に居るのに普通の顔なんて、上手に出来るわけがない。
「おぅ、お前そんな難しい言葉知ってんのか。ちっとは自立できるんじゃねえか?」
風邪なんてひいてないよっていうのに、するりと話題をすり替えられた。聞き捨てならない台詞に慌てる。
「やだよっ、オレ絶対遼次さんと離れないかんねっ」
「あーあーうるせえ。なら早く風邪治せ、うつされたら敵わん」
突き放すようなことを口にしたらオレがどんな風に反応するのかぐらいよくわかってるはずなのに、そんな投げやりにするのはずるい。
むくれるオレを、遼次さんはソファーに座らせる。
一旦寝室に消えた彼は、毛布を一枚抱えて来た。ばさりとそれに包まれる。
「ちょっと待ってろ」
遼次さんはせわしなく背を向けて、キッチンへ。
間続きの空間の中の事だから、彼の動きは目で追える。
心配性な彼は、どうやら本気でオレを病人扱いしてくれるつもりらしかった。
「んー? 風邪ー? まぁいっか。遼次さんが甘やかしてくれるならなんでもいー」
心配されるのは心地がいい。それも、遼次さんが与えてくれるならなおさらに。
「おう、なんでも良いが大人しくしてろよ。前みたいに茶碗割られたくねえからな」
そんなこともあったねと思う。思い出が積み重なっていくこと、記憶を共有していること、そして時折答え合わせでもするように、互いの時間を照らし合わせる幸福。くだらないと思われるかもしれないけれど、それはとても贅沢なことだと思うのだ。
「はーい」
頷いて、毛布の端っこを引っぱって頬を寄せた。
さっぱりとした柑橘系のにおい。
毛布にはまだ遼次さんの温もりが残っているような気がする。
なんだかとても安心して、気付けばまぶたが重くなってしまっていた――。
***
くしゃくしゃと、やわらかな手つきでつむじをかき混ぜられている。優しい感触につられてふっと意識が浮上した。
「ほれ。病人食だ、食え」
何時の間に眠ってしまっていたんだろう。
ぼんやりとするオレの目の前で、まっ白い湯気がほわほわと天井に吸い込まれていく。差し出されているのは、オレ用の茶碗。縁からにょきっと突き出した、スプーンの柄のおまけ付き。
とろりとしたご飯の中に、ちらほら交じる優しいピンク。
「わぁ、鮭粥だぁ。うれしー。ありがとう、遼次さん」
「ん。さっさと食って寝ろ、アホガキ」
受け取ると、一瞬の満足そうな顔。
ソファーが沈んで身体が傾ぐ。すぐ傍に、遼次さんの温度を感じる。
ちらりと隣を見上げると、穏やかに凪いだ端正な横顔。
今日だったら、少しぐらい甘えてもいいかななんて、ちょっとしたいたずらを思いつく。
「ねぇねぇ、遼次さん。あーんして?」
「ああ?」
うっとうしそうな低い声。少しひるむ。
「怒んないでよぉ」
「怒っちゃいねえよ、呆れてんだ……」
「いーじゃん別に。オレを病人に仕立てたのは遼次さんなんだから、責任もって甘やかしてよね」
大切にしてもらってることはわかってる。その上、たまには目に見える形でなんて思うのは、欲張りが過ぎるのかもしれないけど。
「責任転嫁すんなよ、お前いくつだ」
「してないもん」
唇を尖らせる。
もうとっくに成人してるって、知ってるくせに。
「ねぇ、だめ?」
首を傾げて見上げると、遼次さんの動きがぴたりと止まった。
一瞬のラグの後、今さっきオレに押しつけた器を大きな手が回収していく。
「……口開けろ」
ぶっきらぼうな物言いが、かえって優しい。
「やった、へへ。遼次さんだぁいすき」
「黙って食え、せっかく作ってやったのが冷めるだろうが」
そんなことをいいながら、猫舌なオレのためにスプーンにすくったお粥を冷ましてくれる。
「はぁい」
「ああそうしろ」
長い指が、スプーンを口元に届けてくれる。ひな鳥のように口を開けて受け入れると、ぬくいお粥の程良い塩味がふうわりと口腔に広がった。
「……旨いか」
遼次さんの手料理なんてもう数え切れないほど口にしているというのに、こんな風に確かめてくるのは、お粥なんて作り慣れてないせいだろうか。確かに風邪なんてひきそうにもない人ではあるけれど。珍しい問い掛けに、つい口端が持ち上がる。
「うん、すげぇ美味しい。めちゃくちゃ幸せ」
めったに作らないお粥を振る舞ってくれたのも、普段は聞き流す我が侭に応じてくれたのも。嬉しくて、全開の笑顔がこぼれる。
「風邪引いてるやつが幸せたぁ、随分お気楽なもんだな」
「そう? でも本当に幸せだもん」
「頭が沸いちまったんだな、可哀想に」
「もう、すぐそういうこと言う……」
普段通りの問答。小馬鹿にしたようなつれない言葉。なのにそれが妙に甘く温かく感じられるのは、オレの気のせいなのだろうか。
「いーもんね、別に」
むくれる代わりに笑みが浮かぶ。
気持ち悪い顔をするななんていいながら渋く眉を寄せて見せるのに、遼次さんは親鳥みたいに優しい手つきで、しっかりと冷ましたお粥を運んでくれる。
やわらかな味。胸までふわりと満たされていく。
「そろそろ食い終わるだろ、粉薬はさすがに飲めるよな?」
スプーンがかちゃかちゃと茶碗の底を突くようになった頃、おもむろな問いに一瞬ひるむ。
薬は、嫌いだ。苦い物が好きじゃない。それでも、錠剤よりはましだと思う。あんな大きな粒を喉に流し込むなんて、生き物のすることじゃない。
ぞわぞわと背筋を震わせている隙に、遼次さんはさっさと水と薬のパッケージをそろえて戻って来てしまった。これはもう、飲まないなんてわけにはいかなさそうだ。
「遼次さんがお水飲ませてくれるんでしょ?」
しぼんでしまった幸せのパーセンテージを少しでも回復させようと、上目づかいで縋ってみる。
遼次さんがキスしてくれるなら、大っ嫌いな薬っぽい苦さも我慢出来そうな気がした。
「頭沸いてるんだな、やっぱ……」
呆れた目。
「なんでよ、いーじゃん。飲ませてくれたって」
「断る」
きっぱりとした口調に唇が尖っていく。
「なんでわざわざ病人に粘膜接触しなきゃならねえんだ馬鹿馬鹿しい」
気だるく吐き捨てられた台詞のせいでカッと身体に熱が灯る。
なんてことを言い出すんだろう。
理性の塊みたいな人のくせに、たまにとんでもない言葉選びをするから困る。
くらりと眩暈に襲われて、本物の病人になってしまったような気がした。
「遼次さんエロい……」
「具体的に表しただけだろうが、何考えてんだお前」
「べ、別に……」
具体的にって、だってそんな、あぁ、もうっ!
涼しげな無表情が余計に羞恥を煽ってくれる。わけがわからなくなってきて、もう何も考えられない。
「う(゛)ーっ、遼次さんのバカっ」
顔に熱がたまりすぎて爆発してしまいそう。
「お前に一番言われたくない言葉だよそれは」
オレが今どんだけ焦ってるかわかってないでしょ?
「遼次さんが意地悪したんじゃん……」
飄々と返されてしまうとオレ一人がバカみたいだ。
長い指が問答無用で薬の小袋の封を切る。光りの中に細かく舞う粉じんに腰が引けた。
ほらと差し出される透明なグラスに、どうしても手を伸ばせない。
「ねぇ、飲ませてよ」
「断ると言っただろが。さっさと水飲んで薬飲んで寝ろ」
「絶対だめ?」
最後の悪あがき。
「絶対だめ」
あえなく惨敗。
「わかった……。我慢する……」
有無をいわせぬ眼光と厳しい声音に覚悟を決めて、冷たい水を受け取った。
「おう頑張れ」
深い声に少しだけ勇気をもらう。
「んー。頑張るけど……」
「見ててやるから早く飲め」
「うん……」
優しく促されてグラスに口を近づける。
一思いに苦い薬を飲み下した。
うええええ。やっぱり不味いよぉ。どうして食事の後にお薬なんて決まりがあるんだろう。苦い思いをしたんだから、美味しいご飯をご褒美にくれたっていいはずなのに。
「よし飲めたな、偉い偉い」
オレが死にそうな顔をしているのがおかしいのか、声音が笑みの気配を含む。そんな声で褒められたって、別に嬉しくないんだけど。
「寝ろ」
ごくごくと必死に水を飲み込むオレに、遼次さんがいう。
せっかくお薬飲んだのに、そんなのひどい。
「寝るのやだよ」
「この期に及んで何を言うかクソガキ」
「だってさ、寝ちゃったらもったいないじゃん」
せっかく一緒にいられるのに、その時間を自ら手放すなんて。
「ん?」
わからないという顔をする。
「遼次さんどっか行っちゃうでしょ? 寂しいじゃん」
離れちゃうの、寂しいじゃん。
「今日は休みだ。出かける気はねえよ」
「うん、でもさ」
そういうことじゃないんだ。そうじゃなくて。どういったらちゃんと伝わるんだろう。
ぴったり離れずくっついてたい。手の届く場所にいて、ちょっとだって離れたくないんだって、どうしたらわかってもらえるんだろう。
「ずっと傍には居てくれないでしょ? オレが動けたら離れないのに」
絶対離れたり、しないのに。
「そりゃ俺は置物じゃねえからな」
苦笑交じりのあったかな声。
しょうがないなぁとでもいいたげにオレを見る。
そんな、遠くにいるような顔しないでよ。
もどかしさに焦る。こういう時、二人の、別個の生き物であることがたまらなく切なく感じられる。
遼次さんは大人だから。オレよりずっと前を歩いているから。ちょっとの時間をかき集めるような、そんな欲しがり方なんてもう卒業しちゃったのかもしれないけど。
わかってとはいわないから、感じてよ。
オレがどのぐらい本気で、切実に願っているのかを。
「お前はいつでも離れずひっついてる人類でも知ってんのか?」
「うにゃ?」
答えなんてわかりきっていますとでもいいたげで、だからぴょこんと手を挙げる。
「ここにいるじゃん」
「たまには休業したらどうだその職業」
軽い調子で突き放されるのは、実は結構こたえる。
遼次さんに手を伸ばす勇気はなくて、ぎゅうと毛布を硬く握った。
「やぁだよ。一年三百六十五日うかうかしてる時間はないのです」
ある日突然どこかに行ってしまうとか、そんな風には思わないけど。オレ以外を見る余裕も時間も、作りたくはないのです。だから精一杯に、しがみ付いているのです。
「じゃあ今日は病欠で臨時休業ってことで」
「そういうこと言うならオレ寝ないかんねっ」
「ああ言えばこういうなお前は。いいから寝ろ、布団敷くから」
いうが早いか、遼次さんは立ち上がる。
「う(゛)ー。やだよぉ」
いつもは二人、ぎゅうぎゅうに身を寄せる布団の上に一人だなんて。ふすま一枚隔てた向こう、遼次さんの気配を感じてるだけなんて。
「うるせえなお前は、外に放るぞ。隣にはいてやるからさっさと寝ろっつってんだ」
寝室につながるふすまへと向かう後ろ姿。想定外の投げやりな台詞。
ぱぁっと、目の前に光りがはじける。
「ほんとっ!? じゃあ寝る! いいこにするっ」
遼次さんが隣にいてくれるなら、それなら少しも寂しくない。
「変わり身早すぎだろお前……」
呆れた声も気にならない。
毛布を抱えて後を追うように寝室に踏み込んだ。
リビングよりも少し雑然とした、遼次さんのプライベートスペース。
掛け布団をはいで、すぐに潜り込めるようにしてくれる。
「ほれ寝ろやれ寝ろさっさと寝ろ」
「はぁい」
呼ばれるまま、ひやりと冷たいシーツに横たわる。
傍らに胡坐をかいた遼次さんが、掛け布団を胸まで引き上げてくれた。
「ちゃんと寝るから傍にいてね。約束だからね」
「おう。せいぜいお前が布団蹴らないように見といてやるから安心しろ」
「そんなことしないよ。オレ寝相いいって知ってるでしょ?」
「さあな、どうだか」
はぐらかすような笑みが浮かぶ。
なんとなく心細くて、手を伸ばして硬い指先にそっと触れた。
「寝てる間にどっか行っちゃやだよ?」
「まぁたそれか。心配ないって言っただろ?」
物わかりの悪い生徒に言い聞かせるような発音をして、一瞬だけ指先を握り返してくれる。力強くて優しい。
「うん。えへへ」
温もりをかみしめる。不安じみた靄のようなものが霧散する。
嬉しくなって、遼次さんを見上げた。
「……ん」
何を思ったか、遼次さんは胡坐を解くとオレの脇に身を横たえた。
ひやりと一瞬滑り込む冷気。距離が近づく。寝がえりを打てば触れ合える、そんな距離。
「い、一緒に寝てくれるのっ?」
ただ同じ空間にいてくれるだけなのだと思ってた。本でも読みながら、オレが眠りに落ちるまで。
「な、なんだその物言いは、もっとなんというか……マトモに話せ、マトモに!」
「ふえ?」
遼次さんが慌ててる。
まともにっていわれても、一緒に寝るから寝るっていっただけなのに。どうしたことか、何かがツボにはまってしまったらしかった。
「どーしたの、遼次さん」
さっきの仕返しに、少しだけ甘えた声を出す。
「あーもう黙れ! 黙って寝ろ! こっちみんな!」
「やーだ」
こうなった時の遼次さんは本当に可愛くて、つい意地悪を仕掛けたくなってしまう。
「ねぇ遼次さん、ぎゅってして?」
めいっぱいの甘い声でねだってみる。
指を伸ばして、シャツの裾をくいと引いた。
「ああ!? 何言ってんだ誰がんなことするかよ……頼むから早く寝ろホント……」
どうしてそんなに困ってるんだろ。毎日のようにキスをして、毎日のように抱きしめて、それなのにまだ困ってくれるの? オレだけだよね? オレだから、そんな風になるんでしょ? そう思うともう胸がいっぱいで、なんだって出来そうな気がする。
「ふふ。もう、遼次さん大好き」
「あー……ああ、勝手にしろもう」
遼次さんは動揺に一段落付けたらしかった。
少しだけつまらない気もするけれど、わしゃわしゃとつむじを混ぜる大きな手に、大人しく誤魔化されることにする。
「うん」
勝手にしていいっていったの、遼次さんだからね?
お布団の隅っこにわずかに近づいて、広い胸に顔だけ寄せた。
少しだけ早い鼓動が伝わってくる。
「ねぇ、腕枕して?」
「お前は俺の腕痺れさす気か」
胸板からじかに響く低い声が耳に毒で、顔を離す。
「遼次さんがもっとこっち来てくれればいいんじゃん。たまにはいいでしょ、だめ?」
見上げてねだって、小首を傾げた。
「……お前さ、なんか風邪引いたほうが余計に活発になる体質とかか?」
「え?」
呆れ声が思いもよらないことをいう。
でもね、それはハズレ。
「いつも通りだよ」
添い寝も腕枕もどんなことでも、口にしないだけでいつだって欲しがってる。
「毎日して欲しいって思ってるけど、こういう時でもなきゃしてくれないかなって思うから。だからちょっと甘えてみただけ」
「計算で動くなよ、タチ悪ぃぞお前……」
苦く吐き捨てながら、それでも距離が近くなる。
トクン。
嬉しい。
「計算じゃなぁいよ。ただの気づかい」
差し出された腕に頭を寄せて、広い背中にぎゅうと抱きつく。
遼次さんの体温とにおいに包まれて、ドキドキする。
「誰に対してだっつの、クソ……」
めったに逸らされることのない強い瞳があさっての方向に逃げていく。
「オレの大事で大好きな遼次さんへの思いやり」
囁きながらすり寄ると、伝わってくる体温が少し上がったようなそんな気がした。
「気持ち悪ぃ早く寝ろ! もう知らん!!」
「いいよ、気持ち悪くても。遼次さんのでいられるならなんでもいい」
遼次さんのオレでいさせてくれるなら、その感情がオレに向き続けているのなら、気持ち悪かろうがなんだろうが気にはならない。
「お前が、いつ、俺のに……ああもういい加減にしてくれ、お前は何が言いたいんだ……」
オレの大好きなんて聞き慣れてるはずなのに、遼次さんはオレのストレートな愛情表現がいつまで経っても苦手なままらしい。
可愛いなぁなんて思ってしまって、ついふふと笑みが漏れた。
「何って、遼次さんがいればそれでいいんだよってことかな」
「そら安い満足感だなまったく、楽そうでいいもんだ!」
やけっぱちみたいな声がする。
遼次さんのドキドキが感染したみたいに、オレの心臓も煩くなった。
だって今、オレすごい台詞もらわなかった? 遼次さんの存在が安いなんてことはないけど、でも、それが遼次さんの口から出るってことは。
オレのために割く時間、オレに与えてくれる空間、一緒にいるためのもろもろの苦労は、大した問題じゃないって。オレがここに馴染んでしまった気でいるみたく、遼次さんもオレがいることを当たり前に感じてくれてるって、そういう風に思っていいの?
「それってさ、遼次さんがオレとずっと一緒にいてくれるってことだよね」
そんな約束をくれたよね。
「……どうせ、お前が勝手についてくるだろ」
「うん。ついてく。当然でしょ」
どこまでだって、離れたりしない。
諦めでもなんでもいい、追い掛けることを許していてくれるなら。
「そうか、せいぜい俺に迷惑かけてくれるなよ」
低い囁きとともに抱き込まれる。
遼次さんは、本気で眠る体勢に入ったみたいだった。
なんだかもう、全てを許されているような、そんな錯覚。
泣きだしてしまいそうな幸福感に包まれる。
「はぁい」
小さく応えて目を閉じた。
高鳴っていた分、落ち着きを取り戻していく心音。
呼吸もゆったりになっていく。
静かに上下する胸。眠っている人の、呼吸のテンポ。
幸せだ。本当に、幸せ。
幸せすぎてとろけてしまう。
苦い薬は嫌いだけれど、こうして溶けそうに甘やかしてもらえるなら。
たまには病人扱いも、悪くはないのかもしれない、なんて。