朝綺

初秋の陽光暖かな室内に、ほのかに漂う薬品のにおい。
 部屋の半分近い面積を二台並んだベッドが占めるこの空間が、もう長いこと私の職場であり城だった。
 清水皐という女性めいた音の並びをしたそれが私の名だ。誕生日はまだ先の二十七歳。都内にある私立の男子校で保健室の先生をしている。
 座り心地の良い革張りの回転椅子に沈みながら、薄い書類に目を通すだけの優雅な午後。
 いつ何時厄介事が持ち込まれるかわからないのが億劫ではあるものの、おおむね授業中は平和かつ穏やかに時間が流れている、のだが。
 六限目の終わりを告げるチャイムが響く頃から、私の心は少しずつ浮き立っていく。それはまるで、春の訪れを待ちわびるように。

***

「で、何が呼び出しですか何か用事あるなら早くしてください、ていうか離せバカ!!」
 腕の中、苛々とした早口がまくしたてる。
愛しさのあまりつい手を伸ばしてしまったのが、姫はお気に召さないらしかった。
「おや、随分とつれないことをいう。せっかちはいけないよ?」
 たしなめるように囁き掛けると、
「うぜえええええ!!!」
 公道でイチャ付くリアルが充実してしまった人種に吐き捨てるかのように叫ばれてしまう。
 戸向居早汰という、名前からして愛らしく生まれ落ちた彼は、ここに入学して以来ずっと、私の大切なお気に入りの座に定住している。
 しかし、想いは限りなく一方通行。
こちらから働き掛けでもしなければ接点など作れそうにもなかったので、そこはまぁ大人の事情。おととし昨年と保健委員を二期務めてもらった後、今年はついに委員長に指名させていただいた。
 今日も今日とて委員会顧問の名のもとに、呼び出しを掛けさせてもらったという事情。
「何が!! せっかちだ!!! 生徒を後ろから羽交い絞めにして常人ぶんな変態教師!!」
 あんまりな言い分に苦笑。少しばかり耳の痛い話だ。
「ダメだよ早汰。キミと私の関係を生徒だの教師だのくだらない身分でくくっては」
 身分違いの恋なんて、昔から叶わないと相場は決まっているのだから。
「先生気持ち悪いです。お願いだからそのままの関係に落ち着かせてくださいそのうち自分卒業するんで」
 彼はこだわりなく吐き捨てる。
 ただでさえ遠くって、思うようにならないのに、そんなわかり切った現実を突き付けないでくれないだろうか。
 胸の痛みから逃れるために、細い身体を包む腕に力を込めた。 
「随分と寂しことをいうね? 今日の早汰くんはどうしてそんなにご機嫌ナナメなのかな?」
「全く持って通常営業なんですけど……」
 確かにキミは、いつだってつれない。
「いいから離してくださいよ、早く帰って寝たい」
 そのくせたまに無防備に、とんでもないセリフを投げてくれるから、私はもう翻弄されっぱなしなのだ。
「可愛いね。私を誘っているのかな?」
「どうしてそうなる。気付いてると思いますけど、この角度ならアンタ殴れるんですよ、今すぐやってやりましょうか」
 そんなつまらない脅しを掛けなくとも、全力で腕を振りほどきさえすれば済む話なのだと、もうわかっているんじゃないのかい?
 そう思うからこそ、浅はかに期待する。
「それでも大人しく私の腕の中に居てくれるということは、それはつまり愛情表現と受け止めてもよいということだよね」
「いまはまだ取り返しがつきますがそれ以上変なこと言ったら本気で嫌いになりますよ。毎日顔合わせる度にザキかけますよ、ムドでもいいです」
 本当に、キミはずるい。
 私が何よりも恐れているのは本当にキミに嫌われてしまうことなのに、それをためらいなくちらつかせたかと思えば。嫌うと口にするくせに、毎日私のもとに通ってくれるつもりでいるなんて。
「それは怖いね」
 満たされた心地がして腕を解いた。
「本気ですから。末代までハゲろと心の底からの思いを込めて呪いますから」
 用心深い猫のように私からしっかり距離を取って、ようやくほうと息を吐く。
 そんな仕草までもがいちいち愛しくて、胸がざわめく。
 キミは私をどうしたいの? 私を遠い過去にはせずにいてくれるというの?
 無意識の言葉が胸に沁み込んで行く。最奥まで滑り込み、消えない、逃げられない。もう今さら、逃げようとも思わないのだけれど。
「熱烈な愛の告白をありがとう、嬉しいよ。残念ながら私の家系にハゲは居ないのだけれどね」
「清水家のハゲ伝説はアンタから始まるんですよ、良かったですね」
「キミの想いと引き換えになるのなら、髪ぐらいあってもなくても構わないけれどね」
 私を睨み上げてくる瞳のきつさが好ましい。
「なんでコイツなんかが人気あんのかホントわかんねぇ……」
「おや、妬いているのかい?」
 小さな呟きに苦い笑みを誘われる。そんなの、私の方が知りたいぐらいだ。学園中でつまはじきにされたって、欲しいのはキミだけなのにね。世の中は、やはり思うように上手くはいかない。
「何も心配いらないよ。私の心はキミだけのものだからね、可愛い早汰」
 想いの丈を込めてみる。この感情の何割が、キミに届いているんだろうね。
「気持ち悪いです、今すぐハゲ散らかってください。アンタの相手してると疲れるんですよ、もう帰っていいですよね?」
 遊びの時間はもう終わりらしい。彼との切ない逢瀬の時間は、彼の気まぐれに掛かっているので。
「それなら少し休んでいくかい? 幸いベッドもあることだし」
 さっさと踵を返して向けて戸口へと向かう背中を引きとめる。往生際良く帰してやるつもりなど、毛頭ない。
「あぁ、ちょうど美味しいチョコレートケーキがあるんだった。キミの好きなアッサムでも淹れようか」
 それでも止まらない脚にちらつかせる、最後の手段。するとドアの手前でぴたりと、早汰が前進を止めた。
「ベッドの上で物を食べるはマナー違反って言われなかったんですか?」
 渋い表情がこちらを向いた。
「それならいただきますけど」
 小さな声で呟いて、こちらへと戻ってくる。
「おなかを満たしてからベッドの上というのもいいと思うけどね」
 食べ物につられた自覚があるのか、拗ねた表情を浮かべる面に微笑み掛ける。
「なら準備をしようか。少し待っていてくれるかい?」
「速攻で食べたもの吐くことになりそうですけどね、そんなことになったらアンタの腹蹴り飛ばしてやりますから」
 彼の中で、私は一体どんなイメージを持たれているのだろう。
 いきなり抱きしめたりするのがいけないのだろうか。
 ただ単に、可愛い寝顔が見られさえすれば、その分の時間をともに過ごせさえすれば、私は満足なのだけれど。
「いけない子だね。一体何を考えているのかな?」
 まるで私がキミをベッドに引きずりこんで、いかがわしいことでも仕掛けようとしているかのような物言いじゃないか。
「付き合ってやるからさっさと準備やら何やらしろ変態教師! 死ね!!」
 心もち頬を染めた彼が喚く。
「はいはいお姫様、よろこんで」
「誰がお姫様だよ、ホント気持ち悪いことばっか考えてますよね先生って。そのくせお茶淹れるのだけは上手いし」
 早汰は本当に可愛らしくて、私を喜ばせるのが上手だね。
「お褒めにあずかって光栄ですよ。愛しい早汰」
 囁きに、瞬時に険しくなる表情。
 これはまた、叱られてしまいそうだね。
「やっぱさっきの撤回! アンタ気持ち悪いです全面的に! バーカ!」
 相変わらずな彼の態度が愛しくて、私は笑みをこらえるのに苦労した。


あとがき

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