変化率グァマラン

   遠藤ジョバンニ

 家に帰ってくると、朝と全く同じ体勢で父が新聞を読んでいた。
「おかえり」
 そう社説に言葉を落とすと、父は口を閉ざした。そして二人でどうしようもない、買ってきたお惣菜を容器からそのまま食べ、食欲が満たされると食卓にゴミが溢れた。形ばかりはちゃんとしていても、霞を食っているような食事だった。
 粘土質なポテトサラダを口に運び、私は味も確認せずに飲み込む。新聞から目を離さず、父は椅子に片膝をたて、緩い口で咀嚼の音を食卓に垂れ流している。たてた膝が細かく揺れ、小皿の隙間が二人の間に小さく鳴っていた。
「海に、捨てよう」
 私が言葉を放つ。滑稽な食事の様式は変わらない。しかしそこには、意図した沈黙が生まれる。父が、箸の隙間から新聞に餌を与えた。文字はきっと今、別のものを食べているのだというのに。きんぴらごぼうを口に運ぶ。父の思考の味がした。
「ああ」
 言葉と言葉の間が開きすぎて互いが結び合うことを忘れかけたその時、父はそうとだけ言った。いかにも無関心で、気取られない存在感のない言葉で。
 ほんとうに、父は愚かだ。
 薄く滲んだ食欲が満たされる頃には食卓にゴミがただただ溢れていた。品目ごとに分けられた個別の容器がその端にタレや残滓を残し、ばらばらに散らばる。
 いつの間にか父の貧乏揺すりは止んでいた。新聞の頁が、めくられる。その瞬間は、日常を装う空間が一度静まり返って、全てが拓けた。

 父と私は覗き込むような形で、その浴槽の中を見つめた。シート状の蓋をまるめると現れる全貌。沸いていたフナムシがどっと、八方に散っていく。それは、どこにも行けず引けない、ただの行動の結果だった。浴槽に当てはまるよう、正しい形をしていた。もっともその正しさは、浴槽の四角い空間においてのものだから、人として間違った角度と間違った位置が私の嫌悪感を煽る。
 服は着ていない。腕は不自然にぴんと張りつめた肌に、外れて内部から膨らむ骨。殴られて時を忘れたままの頬。ただその真横にこびりつく乾いた血の赤だけが、自分の色を忘れている。命の死んだ色だった。
 どうしてもはみ出してしまう右手を仕舞おうと躍起になったからなのだろう、殴られ左右が非対称に歪んだ鎖骨から伸びる肩が無理矢理外されて、丸をかたどる形を作っていた。
 首は大きく捩くれ、皮の弛みがその中の柔らかだったであるだろうすじや肉を連想させる。首はひん曲がっておかしな方向を示していた。その首に繋げられた母の表情を私は、ただ冷たい瞳で見つめていた。
目蓋は閉じていない。その母の、殴られ腫れた顔に目という部分はもう限りなく糸のようだったが、不恰好な肉の隙間からのぞく水晶体は濁る。だが、その奥底で引き絞られた視線がまっすぐに前を射抜いていた。目蓋を下ろそうと手のひらで触れると、恐ろしいくらい冷たくて、ビニール人形の冷たさに、よく似通っていた。
触れるとその力の行き場を忘れた不安定な首がぐりんと向きを変化させ、母の弛緩した舌が、口の中に納まりきらず、だらしなくこぼれた。

 父と母が買ってくれたビニール人形のことを、よく覚えている。寝かせるとそのまつげに縁取られた目蓋が閉じ、起こすと目が開く。幼い私は人形を友達ともしたし、家族ともしたし、親の罵声をテーブルの下で震え聞きながら小さい赤ちゃんを慈しむように抱くそのとき、人形の名前は私の名前だった。目が開いたり閉じたりするその瞬間に、私は彼女の命を信じていたのだ。
 しかし、眼前に広がる肉の塊は、寝かせても起こしても目蓋を落とさない。人形と同じ体温を持ち合わせながらも、すべてに力は生まれない。
 隣から、何かが重なり合ってはぶつかり距離を保とうとしながらもぶつかる細かな音が耳をつく。向くと、父がその奥歯を打ち鳴らしながら浴室に立ちすくんでいた。顔を浴槽の中に向けたまま、乾ききった唇の隙間から音が漏れ出ている。あかれた目尻に挿された赤はきっと、彼の戦慄く感情が血走っているからなのだろう。

どうでもいい父を尻目に私はさっさと作業に取り掛かった。レジャーシートを床に広げていき、大量に用意したビニール袋を手元に集める。そして、母の浴室に沈む体を引きずり出そうと彼女の脇を抱え手前へと体をそらせた。しかし私の力では母はびくともしない。どうにか試みようと持ち上げる度に、母はただ力なく首を振り子のように角度を超えて振り回すだけだった。
 この作業には父が必要だ。
 父を見る、のどの奥にあった恐怖が血流に乗り全身に回っていた。冷たく沈黙を守る浴室に異物が混じる。こらえていた何かが緩んだその瞬間、父は排水溝へとその感情をはき捨てるように、催した嘔吐物をぶちまけた。
 体の内部までをひっくりかえそうと父の体は躍起になっている。体内を暴れまわるものに涙を溜めながら、父はタイルに爪をたてひたすらにはいた。何も出すものがなくなってもまだなお口内から生唾は垂れ流され、まだ全てを吐き終えていないことを示していた。
 次第に波はひいていき、嘔吐を終えるころには、父は全てを吐き出し、失くしていた。その瞳から完全に光は消失し、感情の一端もなくなってしまっていた。再び浴槽の母に対面したその時、彼の中の誰かが何かを彼に問いかけたのだろう。彼の唇がかさつき、開いた。
「ああ」
無機質で熱のない言葉に、浴室はその存在さえ認められなかった。そして彼は、母の冷たく硬い体を、浴槽から引き揚げた。

当初私たちは母をバラバラにしようと考えた。持ち運ぶことが容易になるし、隠し場所にも困らない。
 しかし、海に捨てるとなると、人の目に付く可能性も出てくる。部分を分けてしまえばそれこそその分可能性は高じていく。そこで、多少持ち運びに苦心しても、そのまま母を捨てようという見解に達したのだ。
 私たちは母を引き上げ、レジャーシートで体をくるみ、さらにその上に新聞紙をかぶせ、その上からゴミ袋で覆った。そして、用心深く車のトランクへと運び入れた。深夜の住宅街は人がいるはずなのに、街に人はいない。静まり返りアスファルトに変える音は、父がトランクを占める金属が噛み合う音のみだった。

 父がトランクを占めるその間に、私は家にある重いものを探した。すると接待用に買い放置されていたゴルフバッグを発見する。その頃の父はそれを買い意気込んでいたが、第一、工場の仕事の一部に接待は存在せず、ひとしきり揃えられたそれは、一度か二度使われたくらいで、納屋という記憶の端へと追いやられたのだった。一番妥当ではないかと父に告げると、すぐそれは採用され、車の後部座席に乗せられた。
 ゴルフバッグを買ってきた、この頃の父の様子を幼かった私は覚えている。若かった父にとって、ゴルフバッグというそれは自分に与えられた仕事に誇りを持つことと同等に結ばれていて、また自分のこれからの未来を思い切り描くためには、必要なもののように彼は感じていた。
 小さい私はゴルフバッグに、父の仕事道具が入っているのかと思っていた。どこにも出かけない週末も、私の背よりも大きな革の筒から長細いそれを取り出して、いつも眉根を寄せている表情をほどき、終始安らかな顔つきになりながら、丹念に、丹念に手入れするからだ。
 その手捌きに当初は憧れ、父の嬉しそうな顔に自分も喜んだ、しかし、そのことによって自分に構ってくれるわずかな時間が完全になくなったとわかると、そこから離れていき空想に生きる見えない相手と、ビニール人形を相手どって遊んでいた。
 父は何かに苛立ちを表していたが、その瞬間にもそう遠くない未来に、違う何かを見つけては、微笑んでいた。
 気がついたらば、彼はあのゴルフバッグを手放していた。そして眉間に寄せられていた皺が、かき消えていた。窓ガラスを手のひらで拭い去ると白さが消え向こうが見えるように。その頃の私はそう思っていた。しかし今の私には、あの表情は、抗った術も対象も忘却しさり、何もかもに身を任せた妥協の面構えなのだと理解出来る。
 向こうが見えるかわりに。幼稚な私は記憶の曲がり角にひとつ忘れ物をしてしまった。父は休日に微笑まなくなったということを。
 そしてそれから父はゴルフバッグの存在を忘れ、仕事というものを日常に変換し始めた。判断はベルトコンベアーに乗って運ばれてくる。父は一度手に取り、またすぐそれを戻し、流す。
 戻し、流す。

 後部座席からの久しく新しい空気に触れるバッグが発する、革のにおいが車中を満たしそこから、私は少し昔の下らないことを思い出していた。視線を、変化し流れていく車外に投げかけ、個物を見ず、流れを眼窩の奥で捉えていた。
 真夜中の街を、私たちは走る。目的地は海。ただ、それだけだ。道が私たちの意図を知らずとも、私たちは海に行くことが出来る。もしかすると道は、私たちも、その後ろに積まれた荷物たちのことも、全てを知っているのかもしれない。不思議とそれは恐ろしく感じなかった。
 柔らかな光を放って夜に浮かぶ道路に行く先を見抜かれながら、助手席の私は窓の蛇行する遠くの街のラインや、途切れたりする灯りの影に自分の顔を見た。その陰影の隙間にのぞく顔つきに、私は変化を感じた。
 私は自分に変化を感じたその瞬間を驚いた。日常という檻に、軟禁されていた己は、僅かな変化にさえ飢えていたのか。そして、変化することが出来たのか。しかし、檻から出されたいきものが、取り戻さなければならないものは、あまりに多すぎる。何が変わり私の書き換えを行っていたのか、その答えを出すためには、今が弱すぎる。答えはでないが、今を考えなくてはいられない。
 湧き出た数々の疑問に呟きを貼り付け答えを求めようとする窓の外の意識。その隣で父は、こちらに何も気配をよこさず、意識をハンドルとアクセルに追従させていた。きっとゴルフバッグを買った経緯も、その間に存在した事実も忘れてしまっていることだろう。膿が染み出るように、車内をゴルフバッグが満たしていく。
 タイヤは回転し、同じ行為を繰り返すことで進んでいる。低く耳朶の横を掠め通っていく音。 私は不思議に思った。日常という劇物の中で進むことなんて可能なのだろうか。
 私は窓を開けた。
 車内の空気が漏れ抜けていき、涼やかでどこか鋭い空気が差し込んで私の額にぶつかった。鼻腔の奥までその空気を吸い込むと、それぞれ気道と肺に違うものがなだれ込んで来る。革のむせ立つそれも、窓の外の世界へ追い立てられていった。気道に空気の持つ透明な色を得、肺に少しの希望を得た。鼻腔に、潮の千切れた気配を与えられた私はその時、父が予想もつかないようなことを考えていた。
 ゆうしゃはいなかった。望むべくした変化は自分が必ず必要となる行動を満たさねばならない。妥協も、独りよがりも、私の敵だ。

 潮騒が脳に直接届いた。
 そういえば、フナムシを見ていない。

 母を携え私と父は海に到着した。
 走っているうちに私たちは、潮風に老いたコンテナが無造作に積まれる寂れた場所を見つけた。太い道から外れ、輝く道は遠くを流れている。
 人目がつかない、ここなら、母は。

 私は先に様子を見に行ってくると言葉を残し、少し離れた場所から降り立った。
 都市に隣接する海は薄汚く汚され、時に存在を否定され埋め立てられ、不毛な暗闇に横たわり、アスファルトに抱かれる。どことなく死を思わせる黒が遠方にうごめいて夜に溶ける。波の静かな夜だった。どこかに海がぶつかる音も、波が波に砕ける音も、しない。ただ流れを知らない留まる黒い水が全体で揺れているようだった。
 すぐ側の海を臨む。海の向こうの街灯りが漏れ出して上空を明るく染めている。隣にある手近に順応する恐怖に、気付かないふりをしていたい街。
 うねりのその向こうに何があるのだろうと考えた瞬間に、這い上がるように私のもう首元までその黒が圧倒的な力をもって迫ってきていた。街はひとつ。私は独り。このままじゃ、引き込まれる。私の瞳の黒に、生きる力に飢えた貧欲な黒が飛び込んで、内側に、入り込んできたら、引き寄せられてしまう――。
 惹きつけられ心もとなく握られていた手のひらの中の携帯電話が、震えた。私はその振動に、はたとすぐさま我に返る。戻ってきた。自分に、その瞬間に、焦りながら指先でつまむようにして携帯電話を開く。そこに、私の声を待っている人間がいた。私が許すことを待っている人間が。私は、柵も段差もなく、当然のごとくアスファルトから海へ投げ出されるその境界線を凝視した。しかし、可笑しいことだが境界線は、私の目には認識できなかったのだ。

 父の元へ戻り、何もなかったことを、沈黙を以ってして告げ、車を寄せると、私たちはまずゴム手袋をその手にはめた。車の後部座席からゴルフバッグを取り出し、そしてトランクに長らく放置していた母も二人で取り出す。
 ゴルフバッグと母、重さは違う。死んで母の背負っていた全ての重さが溢れでたのか。母が背負っていたものって、なんだったのか。重さの異なる二つを運んでいるその時私は、じゃあどうして今私は、母とゴルフバッグの重みを識別できなかったのか。
 ゴルフバッグの中のスペースにそこらへんに落ちているブロックや大き目の石などを詰め終えると私は父のほうへ視線を寄せた。どこかの冷たい街灯の光が距離に薄まり父の頬に微かな陰影をつけている。父はただ黙々と、母と向かい合って、ゴルフバッグと結びつけるための紐を用意していた。表情は硬く冷たく、母と全く同じだ。
 紐が布にビニールに擦れあう音が、作業が着々と進んでいるのを示す。擦れあっていた音が締まり、繊維が固まる音。父が縛っている。がしかし、頭部とバッグの先端を縛る紐の長さが多少足りない。私は、胸元にかけられた制服のスカーフの縛り目をほどき首からするりと引き抜いて、紐の先端に結び付けた。一部だけが、万国旗のような鮮やかな色合いを帯びる。それはちょうど母の眼球があるあたりを真一文字に横断していた。目隠しされた母は遊戯に興じる酔狂のようだ。
 私は作業するその手を止めた。
「お父さん。これから、どうするの?」
 久しぶりに父を父と呼んだ。紐が布の間を張り巡らされていくそれに隠すように、父が口を開いた。
「何も。変わらない。ただまた、毎日だ」
 恥ずかしいことも悲しいことも嬉しいこともない抑揚でそう伝えた。父が結び目を固く閉じた。体で力を籠め、鼻からあぶれた空気が広がる。軋みをたててその結び目は約束された。
「そう」
 私がこの手から作業を取り落とした。父は背面にいる私のそれに気付かず黙々と目の前のそれを確立させることに夢中になっている。何も見えないのか。目を細める。そして迷いなく、左手が身体のラインを下って、ポケットに滑り込んだ。
 そして遠くから、船の海を割る音に混じり、警察のサイレンの音がこの耳に近づいてきた。父はその音が近づいてくるなり、その手を早めようとした。でも、私は手伝おうとしない。苛立ちを僅かに額に滲ませて父は、母とゴルフバッグを括りつけたそれの一端を私に持たせようと促す。しかし私は手伝わない。見かねて全てを自分でやろうと父は舌打ちした。近づいてくるサイレン。
 一瞬、父が身体についた毛玉を見つけ認識する程度に頭の中で処理が行われて屈んだ父が、ポケットに手を入れた私をゆっくりと見上げる。
 私の目を見ようと窺い探るが、私の顔を本当に、父は見れたのだろうか。むくみきった頬に、煙草で黄ばみ濁った眼球。何をかぎとることの出来るのだろうか世界に向けられていないその怠惰な鼻。その醜い顔立ちがまるごと、私に意識を注いでいた。
 さらにサイレンは近づいてくる。私は左のポケットから手を出した。父はさらに肉体を強張らせた。夜の僅かな闇でも充分に光り、充分に凶暴な空気に感じたのだろう。サイレンがコンテナに響いて余韻を追う、奇妙な潮風。今ここで父は自分の存在の危険を感じている可能性、そんなことはどうでもいい。私は構わず握った刃を、自分の腹へ突き立てた。
 日常になんか、戻さない。
 鈍く貫かれた感覚のすぐあとを追従する痛み。私は地面へ前のめりに倒れこんだ。制服のごわりとした生地に浮かび上がるぬめりを右手に受け、耳に、地面を素早く這う新鮮な音が届く。サイレンが車の走行音に混じって数を増幅させる。パトカーのタイヤがのアスファルトを踏みしめ前方へ進んでくる。そして倒れこんだ私の背後で、ライトが点滅する。
 日常になんか、戻さない。
 父はただその場に立ち尽くしていた。警察が到着し取り囲まれ、強いライトを彼に当てたその瞬間も、私から思わぬ形でもたらされた全ての終焉を、受けることにしていた。
 その瞬間は、彼の中の日常が特異な輝きを放ったのか。
 戻りたいとその意志を働かせたのか。
 日常には、戻さない。私が、変化するために。
 世界が怠惰と妥協で塗りこめた安心な円形を、変化という破壊でぶち壊す。
 痛みが拡がる。意識に痛みが食い込んで身体が苦しむ。しかし心のどこかでは、快かった。大きな喜びに顔が綻ぶ。私は、笑った。
 これで、進んだ。意識が限界に達しかける、その時、視界の隅から去り行くものがあった。それは、フナムシだった。物陰におびただしく幾重にも折り重なったそれらが、海へと還っていく。
 目蓋が自然と下りてくる。私に用意された、明日に目覚めるそのために。

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