変化率グァマラン

   遠藤ジョバンニ

 或る朝、私は起きた。カーテンは開かなくてもわかる。向こう側は膜を隔てていても、同じ曇天。生きる力を慢性に不足させている空気。昨日からずっと続き、そして決定的に何も進展していない今日。今日と呼んではいけない今日。なにもかも境界線なんてあるようでない、朝。
「おはよう」
 母が、ドアを線をひいたようにしか見えないくらい小さく開けて、手紙をその隙間から落とすように呟いた。そしてドアをなんともなかったように閉めて、階下に下りていく。音が遠のいていくにつれ、起きたての私の神経は逆さまに撫でなれた。上半身を起こすとカーテンを乱暴に開け放った。太陽よりよっぽど目を射る鈍い白。
 おはようじゃない。何がはやいんだよ。見ろ、この曇天、もうなにもかもが、
 手遅れじゃないか。
 怒りとも絶望ともとれる感情が、ベッドにぶちまかった。無気力を具体化した蒲団が、灰色に湿る。今日も私の村人の一日が続く。

 高校の制服に着替えて階下へ降りてリビングへと行くと、母と呼ばれる生きものが粘土かなにかを捏ねて作った朝食に、おびただしいフナムシが群がっていた。群がりすぎてそこになにがあるのかわからない。
 このフナムシは私にしか見えないようだ。部屋の隅、テレビの裏、洗面所の壁、そこかしこに、何匹も、うごめき生きている。もう見えるようになってからしばらくがたってしまって残念ながらそれに関することはなんにもなく、もっと残念なことにそれに私も慣れてしまった。今はなんとも思わず生活している。
「おはよう」
 つなぎを着てテーブルについている父が、広げた新聞の社説に挨拶を交わしていた。私が何も言わないでいると、父は経済面を広げた。わたしもテーブルにつく。興味なさそうに朝食に目もくれていない。
 父は手を伸ばして無造作にフナムシを何匹か掴むとそれを口にもっていって、ばりぼりと食べた。口の端から未だにうごく触覚が、何層にも折り重なった腹が、はみ出していた。青紫色をした体液が口の裾からふいに流れた、生えかけた2日目の髭が留める。活字で僅かに黒くすすけた親指がすくってなめ取った。きっと株式上場企業の味がしたろう。
 母みたいなものは今日も父みたいなものをとがめる様子はなく、フナムシの山からひとつを取った。フナムシが2、3匹付いているが少ないもので、母のそれからやっとこれがサンドイッチだということがわかった。私もフナムシを払いのけながら一つ取る。指先でつまんでテーブルに落とすと、敏捷な動きで節々を波打たせテーブルの裏に去っていった。
 私たちの間に会話はない。さっき発せられた朝の挨拶だってコンビニのセンサーとなんら変わりはない。来たから言った。ああ、熊のベティが私の代役をしてもそれは機能するんではないか。どうでもよくて、馬鹿馬鹿しい。私がどうでもいい存在だとしたらそれは、この家族もどうでもいいってことになる。それは、この食卓に漂う、どうしようもない空気が勝手に代弁してる。
 自動的に自分がどうでもいい存在のような気がしてサンドイッチに視線を落としていると、パンの内部が一瞬動いた、ような気がした。指先でパンをはがすと、そこには、ハムときゅうりとレタスと――何かの代わりに入り込んだフナムシ。

 母と父の怒号を背に、私は学校へと向かった。
 きっかけが何かは知らない。本当にどうでもいいことなのだ。双方内在する共通の項か、または双方同士が原因になりうるならわかる。だが、その喧嘩の定義が成り立つのは他の人間だけだ。
 あの人間たちは、今日の天気だって十分な汚い争いの理由にする、一種の才女才子だといってもいい。あんな雌と雄の遺伝子、迷惑だ。私は、あの人たちの争いから生まれたのかもしれない。
 歩む足をやめて顰めた顔を上げた。やはり曇天がどこまでも広がっている。低く重い雲が真上を向いた私の眼球を圧す。眼球の奥で何か音がしたようで、ただ仄白いだけの視界がわずかにぶれた。
 頭を戻すが何も変わっていない。フナムシのいる風景も、成育しない街も。
 歩みを再開すると、高速道路下の短いトンネルに差し掛かった。暗さが汚さを呼んできたら、どうしようもない人間が集まった。
 壁際には市がやらせたのだろう死んだ目でお花畑を駆け回る少年少女。の上に描かれた落書き、分別と書いて混在と読むゴミ捨て場、人の形に膨らんだ、湿った道端の生きたダンボール。
 昨日みたのと全く同じ。フナムシがここぞとばかりに群がり溢れ返って彼ら同士の重なる乾いた音が膨らんで、トンネルはさざなみが反響したように揺れていた。私の一歩が、波紋を呼んだ。そしてまた一歩とトンネルを進んでいく。
 私は自分がむらのじゅうにん、なのではないかと思っている。毎日おんなじことを繰り返して、おんなじことしか言わない、ゲームの中の、むらのじゅうにんそのひとり。自分で言いたいことも言えず、勇者が自分のところに来るのを待つ、世界の代弁の一部。
 日常が完全なる日常であるこの毎日を、ほかにどう表現したらいいか、私はわからない。そこでふと、思い直す。むらびとなのだからそんなこと、どうでもいいのだ。
 体がひどく重い。でもそんなの毎日だから、耳朶にこびり付く父と母の喧騒。でもそんなの、毎日だから。私はトンネルのびしゃびしゃでポイ捨てされたヤニ臭いみじめな影に、ひとしれず溶けてしまいそうだった。

 学校に到着し、自分の座席につこうとすると、机は黒く波立っていた。
 フナムシだった。
 私が座席に近づいていくたび一人の好奇の瞳が一つになって私の挙動を逐一追っていく。私は無関心に応接室と書かれたスリッパの音をたたせながら、二本の足を動かした。到着した。中心部に向かいドーム状に盛り上がっているフナムシ。
 大きく右から左へ、左の手の甲で払いのけると、机に書かれたものが眼前に飛び込んできた。 言葉の千切られた机の上は、生卵が派手に乗せられて花が咲いている。
 ふとみれば、溜まった歯垢が黄ばんだ歯を見せ卑しく笑う男の口に、フナムシが張り付いている。特別な目の色をしてこちらを見やり、股からむせるような雌臭いニオイを垂れ流す女のふとももの付け根に、フナムシが走る。
 どうでもいい。
 お前たちだってむらのじゅうにんなんだよ。毎日、何してる? 私をいじめているだけじゃないか。カノジョテストハヤリアソビテレビケータイカレシ私のいじめかただってさえ変われない。
 私はやけに賑やかに聞こえなくもない空間から窓の外を眺めた。またしても曇天が、切れ目を生むこともなく大気を大きく包んでいる。あの雲たちに、時間は流れない。ますます私という肉袋に不自由を詰め込まれた気がした。
 その時、遠くへ意識を飛ばしていた私は不意に引き戻された。教室の空気が、一人の誰かの言った何かで変わったからだ。糸を針に通すだけの間。そして巻き起こる笑い。
「アラタガワ、お前、冗談上手いな」「アラタガワァ、こんなやつ社会のゴミじゃあん、なにいってんの?」
 アラタガワ? 皆の視線をたぐり寄せ集めているあの男のことだろうか。苦々しく眉をひそめて誰に自分の視線を送ればいいか迷っているようだった。アラタガワの言葉は、まだ続いた。
「もうやめようよ、こんなのつまんないし、いい加減飽きたしさ」
 苦笑いは頬に汗を垂らしアラタガワは嘘くさく素振りをするが、それに賛同するものはいない。白々しい目でみなアラタガワのその言動を突き詰めている。
 言ったはいいがアラタガワは次の言葉を練り上げられないようだ、唇を内に丸め込んで噛んでいた。そのとき、なんとなしに見ていた私と、アラタガワの目が合った。途端彼の目に何か力のようなものが篭もって、いきなり私に喋りかかった。
「五城川原さんも、そうだよねっ! もういじめられたくないよね!」
 アラタガワはずんずんと私のほうへ触手を伸ばしてきた。現実的距離も短くなってきて、私はアラタガワを見上げる体勢になった。熱を持った背筋をかたく強張らせている、アラタガワは何に怯えているんだろう。でも、そんなことどうでもいい。
「……」
「五城川原さん?」
「あなたが、ゆうしゃなのね。」
「え?」
 初めて今日、日常が変わった。それをただ一点腐るまで見つめ続けていた。むらのじゅうにんは、ゆうしゃに喋りかけられ、次の一言を放つことを許される。日常を切り裂きしゆうしゃなる者の出現を、私は、喜ぶでもなく予め決められていたかのように、あっけらかんと迎えた。
 ゆうしゃは目を丸くして私の面を凝視した。自分が何たるかをわからないのだろう。いや、こいつはゆうしゃ、だ。だって日常が何であれ変形したのを、私は見たのだから。
 私がそう質問したのを聞き、群集がまた、どっと笑いに沸いた。
「勇者? なにそれェ?」「頭ワイてんじゃねえのこいつ」「誰か助けてくれると思ってんのかよ。死ねよ」「助けたアラタガワも馬鹿だよな」「おい馬鹿、その頭のいっちゃってる五城川原さんと仲良くここでキスしろよ」
 留めることなく生まれ続け投げつけられ続ける罵声の中、私たちは向かい合ったままだった。民衆なんてどうでもいい、彼を見ていると、彼は目を伏せ拳に力を入れてはぶるぶるとその背を震わせていた。頬を赤で染めている。そして、耐えられなくなったのか心底恥ずかしそうに教室の外へと飛び出していってしまったのだった。
 まだ途絶えぬ笑いの中、私は立ち尽くした。
スイッチは押された。
今度は、何が変わるのだろうか。
 笑う男の口の端で、フナムシの潰れる音がするのを、私は聞いた。

 家に帰ると、母がいなかった。何故なのかなんて、どうでもいい。ただ父だけがいつもより早く家にいて、テレビを見ていた。反射的に出前をとって大しておいしくもない無感動な寿司を食べた。
二人の間の沈黙を縫い合わせるためにつけられたテレビでは、にこやかな家族が、豪華とは呼べない食卓を囲み、これ以上にない笑みを顔に浮かべている。
 嘘のつくりものでさえああ幸せそうに出来るのに、何故私たちはその努力さえしないのだろう。いつかこんな瞬間が、この集合体にもあったのだろうか。
 食卓の電灯だけが煌々と点き、下ばかりを向いている父の薄らハゲを見ながら食べる海老は、吐き気がした。
 食器を下げに流し場にくるとそこは昨日の朝と思しき食器が積み重なったままになっていた。何も考えずそのまま上に重ねて、風呂に行こうとするが呼び止められた。給湯器が壊れているのだという。父の声に抑揚はなく、父の給湯器も壊れているようだ。どうしようもない間。
互いに「母」というカードを場に繰り出すこともなく、言葉の投げ合いは一巡するだけに自然と留まった。

 部屋へ戻ろうと足を向けると、視界の隅でフナムシが、行列を作って隅にたぐまっている。薄暗闇の中、うごめく虫たちに、私は先刻の海老を思い出す。フナムシは一列にそって数を重ねている。茹でたらその身は赤くなるのだろうか、と思いながらフナムシは廊下に続いていく。
目線で追っていくとそれは、浴室へと続いていた。その影を追おうと右足を出し、下を向きもたげていた頭を戻すと、私は驚く。そこに、父の姿があった。
 電気も点けず立ち尽くしている父の表情に闇が張り付いて、それは見えない。居住まいを正さず私が、そのままの姿勢を保っていると、父の唇と唇が離れ、唾液が気持ち悪く歯切れ悪く、音をたてた。
「部屋へ、行きなさい」
 脱衣所から浴室に入る扉は、開いていた。父の身体の隙間から、その空気が暗闇の中でも伝わってくる。浴槽の蓋は閉められていた。
「部屋へ、いきなさい」
 しかし蓋は完全に閉めきれておらず、端が丸められていた。その端から、何かが、出ていた。見られてしまってはあまりにばつの悪い、そう、ばつは罰。白い罰。暗闇に浮き上がる、細く長い、それ。
 一瞬、漆黒の最中の父の目が光ったような気がした。そして突然自らの全身が上へと向かおうとするような一つ一つ細い痛みが私を襲う。父は、私の髪の毛をその手のひらに握り締めていた。
「行きなさい」
「い、いたっ」
「いきなさい」
 身体の中で繰り返され吐き出される父の言葉は煮え立ち、気持ち悪く粘ついた。その手を離すよう暴れると、父は煩わしそうに頭を廊下の向かいへと投げつけた。床に叩きつけられ転んで少し滑る。太ももが摩擦でとける熱さ。
丸まった背が壁へとぶつかり、口から空気の漏れる音が、薄暗い廊下に転がった。暗転する世界に意識を濁しながら私は廊下へ丸まり寝転ぶ形になる。父が2、3歩と歩んでくる。重さの伝わる、床板のたわみが、冷たい床から伝えられる。
私は、顔を、上げなかった。
 父というしかない男が、私の腹に、蹴りをぶち込んだ。鈍く無関係を装う白々しい音が、私と父の何かを確かに隔てた。
何もかもは止まらない。父はひたすらに私を蹴った。私は喉で自分を殺し、父の動く足を見ているようでその実、何にもその瞳でとらえていなかった。漏れる父のうわ言が耳にへばりついて、取れない。身体は衝撃に浮かび、痛みが拡がる前に再び、訪れる衝撃。
 痛みはいつの間にか麻痺し、床下に抜けていた。
 明るい一枚ガラス戸の向こう側、点けっぱなしのテレビから、笑い声がどっと溢れるのが聞こえた。顔を上げて父の顔を見上げようとするが、薄暗いその中で、父の顔がどうなっているのかは、わからなかった。
 私はひどくみじめで腹立たしい気持ちになって、自嘲の笑みが鼻から抜けた。父の動きが、時を止めた。そして高く上げ、一気に踏み下ろした足で私の腹をぶちぬいた。
 不意の力に思わず、身体の奥底から息があぶれた。決定的な一打に、全身の力が篭もり、貫いた痛みが駆け抜けた。
 痛みはいくら息を漏らしても声を垂れ流してもひいていかない。毛穴という毛穴から、汗が滲み、不快感は最高潮に達した。両手で抱えるよう姿勢をより一層固くしたが、もう遅い。父は再度その足を振り上げ、思い切り振り下ろし、ひときわ大きく肉塊に響く音を、私の頭蓋に響かせた。
 その瞬間、私は思う。
 私たちは、こういういきものなのだ。幸せに微笑みあう瞬間も、温かさを与えられる刹那も、私たちにはない。こういう生き方でしかきっと私を育てられないのだ。父の皮を剥ごうとしても父は父で、私の内臓をすり潰さんと蹴り続けた。
 一枚、ドアの向こう側、つけっぱなしのテレビから、笑い声がどっと溢れるのが聞こえた。
 それきり、私のテレビはぷっつりと切れ、画面は暗く、死んだように沈黙した。

 目を開けると、枯れかけた花が生けてある花瓶が左から生えた台の上に突き刺さっている。頬の冷たい感触に気付き、自分が寝転んでいることを思い出し、身を起こそうと四肢を捩らすが、支配する鈍い痛みに、起きかけた私の身体はもう一度床へ転がった。
 再び反転する世界。私に群がっていたフナムシが、ざっと物陰に去る。舌先が感じる鉄槌の味。口元を拭うと、生温かなぬめりが舌先に絡む。血だった。
 歯の奥底を軋ませ立ち上がるが四肢が正しく伸びず、縮み上がったままだ。壁に手をつきながら、部屋へ向かい、今一度、ベッドに倒れこんだ。
 切れた口元はまだ赤を流している。フナムシが一匹、やってきてその触手でかさかさと私の傷口に気配を伸ばし、細かく口を開閉させた。私を、食べるのか。
 身体が不自由で重い。父の奥、浴室の中に見た、罪を思い出す。それは父の罪、母の罰。まどろみ降りてくる目蓋の裏、結ばれる像。それは、母の、血の気の失せた白い手のひらだった。

 学校へ行くと、机にフナムシは沸いていなかった。何もなかったかのように振舞う机、今までも。何であろうと、どうでもいい。ただ、フナムシは、別の机に沸いていた。今日一日、その机に、人が座ることは、なかった。
 窓の外を眺める。重みを増してきた灰雲のもと、校庭の隅に、円を囲むようにして人が4、5人集まっている。一人が、囲んだ大きなゴミクズを拾い上げた。そして、その拳で殴る。ゴミクズは吹き飛んだ。汚れきったゴミクズだと思っていたその塊は、ゆうしゃだった。
 ゆうしゃは、むらびとに殴られ、蹴られ、土煙にむせび泣いていた。そしてむらびとの一人のズボンの裾に取り付き、哀願した。しかしむらびとは蹴りを見舞ってゆうしゃを引き剥がすと、その靴先で腹を踏みつけ、快活に笑った。みんな、笑った。
 ゆうしゃは、むらびとになりさがった。

 学校の全てが終わり、私は帰ろうと席をたった。水を多く含み始めた仄暗い雲で大気は冷たく向こう側でぶつかる線は霞んでいた。今にも始まりそうな気配、教室はもう私しかいなくなってしまっていた。その時、
「ちょっと」
 誰かが背後で私を呼んだ。どうでもいい、気だるさに私は身を翻し、そのまま帰ろうとするが、声の主は全身で乱暴に私を止めた。女だった。鋭く削られた眼光をこの目に突き刺してくる。敵意と憎悪で女の肩は上下していた。
「あんた、どうしてくれるつもり?」
 力の篭もった声が怒りに震えている。私が、何をどうしたんだか、よくわからない。私は黙っていた。女はそれに苛立ったのか、至近距離にその顔を近づけてくる。
「勇者だかなんだかしらないけど、ふざけてんじゃねえよっ!」
 しかしその面は、端整とはいえない造りに粉がぬったくられ見当違いな線が引かれ、油で崩れかけて無様なだけだった。勇者、ゆうしゃ。
「助けられなければ何も出来やしないクズ女のくせに」
助けられる。ゆうしゃ。……私は、この目の前の女がなんなのか理解した。
「虐められてたくせにいきがって。見苦しいんだよ、迷惑なんだよ!」
 詰め寄ってくる女。息苦しさに一歩を下げる。女のスカートの裾からのぞく太ももの辺りから、雌臭さがたち上り、私は眉を寄せもう一歩下がる。背に冷たい感触。
窓ガラスがもう後ろがないことを伝え、大気の震えを伝えた。雨が、ふりだした。
 女がただの情けない感情を振り回しているだけだと、その正体に気付くと私の中にあるものは急激に冷たくなっていった。目の前の生きものが、ただただ愚かに見えて仕方がない。
 女の暴れ狂わんとする激情に、私は確信した薄笑いを浮かべ、顔に憐憫さえ浮かべて言葉を放つ。
「お前、好きなんだ」
 風が、窓枠にぶつかりその言葉を二人だけのものにする。
 途端に女の顔が急激に青ざめ、瞬間には発火したように赤く変化し、せせら笑う私の肩を弾けた右手で強く掴んだ。私の肩が予期せぬ力に揺れる。
「何でこんな女が……ッ」
掴んだ手のひらは皮を食い破り骨を触ろうと握る力をこめる。女は必死な形相で、その力を緩めない。
「うるさい、あんたなんか、あの人の前から消えればいいんだ」
 喉の奥で唸る女、その殺意の瞳を見つめているようで、私の意識はそこにはない。そのさらに奥で、出現する、言葉。ゆうしゃ……ゆうしゃは、むらびとになった?
 ――違う。
 そこで私は気付く。そう、そうか。
「あんたなんか、あんたなんか……」
 ――ゆうしゃなんて最初から、
「死ねばいいんだッ!」
 ――いなかったんだ。
 激昂した女が振り上げた平手が私の頬に接触することは、なかった。
 女の飾りすぎた瞬きが判断するより早く、私が、右手でつくった拳で女の顔を殴った。頬は捻られ頭は後ろへと飛んだ。身体が遅れて後を追い、秩序は乱れ女は倒れた。
 日常という毒物を邂逅によって変えられるのを待つのではない。私は、むらびとではない。雨が窓を壮絶に叩き、風が木を次々と下から舐め尽くし、隙間に入り込んでは揺らす。
「なによ」
 起き上がりかけながら呪詛を、女は呟いた。口の端には血の一筋が伝う。眼光ばかりが鋭い女を、私はつま先で小突いた。あう、と情けない声をあげて呆気なく倒れる。
「じゃあ、お前は、そいつの何なんだよ」
 私の中で、何かが奮え、殻を破った。
「そいつは、お前にそうしてほしいと願ったのかよ」
 足の裏全体でその怠惰な肉に包まれた身体を転がした。
「ただの独りよがりにあのクズは振り向くかってきいてんだよ」
変えたいんだろ、世界を。やってみろよ。スイッチ押してやるよ。立ち上がれよ。私を泣かせて謝らせたら、「あの人」のクソみたいな日常が変わるかもしれない。
 それでも女は立ち上がらない。答えるべき人の声も見当たらない。頭を垂れ下げて、小さな嗚咽をあげ始めた。泣くな。そんな涙、この世の何にも役にたてやしない。どうでもいい。
 茶色い軽薄なその長髪を引っ掴み、顔を無理矢理上げさせると、強気な威勢は、描かれた薄い眉毛とともに涙に流されかけていた。鼻水の柱を二本鼻筋に這わせ、その瞳は怯えている。屈んで瞳の奥を探るように見回すが、背に怯えを走らせるだけだった。
 私は頭を掴みあげ無理矢理女を立ち上がらせると、もう一発殴った。鈍く歪む愚かで半端な覚悟を、打ち砕く音。
怯えているだけの女は、短く悲鳴をあげて再び床に倒れこんだ。倒れこんだまま、起き上がらない。防御の為の身じろぎもしない。
身体はリノリウムの床に放られて、女は気を失っていた。口の端から血が伝い、床に小さな点をつくり、次第にそれは大きさを僅かに変えていった。
 その姿を見下しながらも右の拳にまとわりつく痛み。変化は痛みの連続だ。今の私にはこの痛みさえ、愛おしく親しいものに思える。
 そこへ、今までどこにいたのか大量のフナムシが寄ってきた。さざなみだつ教室。視線を落とすと、倒れた女の周りを、床を埋め尽くすほどのフナムシがその折り重なる体をくねらせていた。血の臭いにつられ集まってきたのだろうか、全ての気配は、私に向いている。
 その気配は、許可を求めるのだと理解する。
「たべていいよ」

 一息言葉を放つと、素早く蟲どもは女の全身を覆いつくし喰らいつき、より一層波立って女の上に群がった。つま先まで覆われた女の姿はもう認められない。甲が重なり合う音に、風雨の音が重なる。踵を返し私は教室を去る。背に負っていたそれはさながら、うねる大きな海の生きる音のようだった。

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