シンデレラ@ストライキ

   ヨコチ

 Act1
 もしかしたら、目の前が既に真っ暗なのなら瞬きは必要無いモノなのかもしれない。唐突にそう思い付き暗闇の中で目を見開く。
 周りはこの世の終わりみたいに何も見えなくて、確かにあると感じている自分の体さえ曖昧になってしまいそうだ。備え付けられている馴染みの家具たちも、今は暗闇の向こうにその姿を潜めている。そもそも、まだ其処にあるのだろうか? 昔の私と、まだ生きていた頃の父と母が描かれた小さな肖像画も、ちゃんと机の上に置いてあるのかどうか不安だ。
 唯一、お尻に触れているベッドの感触――スプリングがその役割を果たさないせいで気を抜くとお尻がどこまでも沈んで行きそう――と、足裏の何も敷いていない床の氷のような冷たさだけが私の体の所在を辛辣に教えてくれている。
 この部屋には窓が無い。一番高いところは一番良い部屋、なんてあのクソ姉妹に言われて――だったらあんたらが住め!――宛がわれたこの屋根裏部屋は、隙間風こそ入るものの、明かりと名の付くものはほとんどがその進入を許されない。
 加えて室内には蝋燭やランプなどといった文明的なものはなく、夜になってこの空間を把握するのに使えるものは、ここで過ごすようになってから六年間の間に培われた私の勘のみだ。と言っても、何時間もこの闇の中に佇んでいれば、そんなものは完全に麻痺してしまい、私の体は無防備に投げ出される。
 夏暑く、冬寒いという四季を肌で感じることのできるこの部屋で六年、私は過ごしてきた。六年間、父の死をキッカケに継母に手のひらを返したように冷たくされ、継母の連れ子の姉妹には苛められ、それまでまったくしたことのなかった家事の一切を押し付けられてきた。
 いつの間にか、掃除や家事で薄汚れた私のことを彼女達は「シンデレラ」と呼ぶようになった。その意味は灰被り。
 一番初めに呼ばれたのは確か暖炉の掃除をしていたときだった気がする。
『今日からあなたのことはシンデレラと呼びましょう』
『まぁ、素敵。なんと似合うのでしょう。お母様もそう思いませんこと?』
『ええ、まったくそうね。これほどシンデレラと言う名の似合う子は、この国中探しても見つかりはしでしょう』
『『『クスクスクスクス』』』
 ああ、なんだか憂鬱になってきた。過去なんて振り返るものじゃないわ。そう思い、とりあえず瞳も順当に乾いてきたことなので一つ目を閉じてみた。 
 暗闇にさらに暗闇で蓋をするイメージ。
 元々機能していないも同然だったけれど、閉じればその分ほかの機能が際立ってくる。当然、視覚を閉じたら次に台頭してくるのは聴覚じゃないかしら。
 動くものが私しかいないこの部屋では、さして音は聞こえてこない。まず、自分の呼吸の音。そして内から響く心臓の鼓動はやけに大きく聞こえて、自分が生き物なのだと自覚させてくれる。たとえ昼間は何か言うことを聞く道具のように扱われようとも、この鼓動が私を人間だと証明してくれる。
 部屋の外からは風の音、木の葉のすれる音、ふくろうの鳴く声なんかが聞こえてくる。
 結果的に分かるのは私が居るということと、変わらず外の世界が存在しているということだけ。知っていることをさらに知ってどうするのだろう? 中々に馬鹿馬鹿しくて、そんなことを自問自答している自分が嫌になった。
 詰まるところ、私はやることがなくて退屈しているのだ。
 部屋に籠もって早五日。初めは母に言われ説得に来ていたあの姉妹も、もう扉の外にはいないようだ。恐らく、新しい女中でも雇ったのだろう。昨日から聞こえてくる声の種類が増えていた。そしてその女中とやらは、自然とあたしの役割を果たしているらしい。
 姉妹のストレスの発散相手――世間的にはおもちゃとかいうのかしら?――も込みで。
 気の毒だとは特に思わなかった。何故なら、彼女は嫌なら辞めてしまえる。
 この陰気で寒々しい部屋から出ることの出来ない私と違って、彼女は逃げ出すという選択肢を持っている。それだけで、私よりは幾分マシだ。    
 そう、私はここから出ることが出来ない。家事の放棄というささやかな反抗こそ出来ても、ここから逃げ出すことは出来ない。悔しいことに、父の残した財産の管理はあの継母がやっている。同等の権利があると主張しても、あの人はせせら笑って聞く耳を持たないだろう。あの女は頭だけは回る。
そして最悪なことに、継母は自分と、血を分けた娘以外に金を使うことが死ぬほど嫌いだ――女中を今まで雇わなかった理由はこれ。
 私はこの屋敷から抜け出したら一文無し。町へ出ても、今と同じ下種のような金持ちの下で女中のような仕事に就くか、或いは路上で娼婦でもやるのが関の山だ。
 言っていて悲しくなるけれど、これが現実だ。                 
 御伽噺のプロローグにもなりはしない。陳腐でありきたりな不幸話。
 …………チクショウ。思わず乱暴な口調にもなる。ため息だって出るわ。
 閉じた世界は閉じた思考を生むのかも入れない。そう思い至って、閉じていた瞼を再び開ける。どうせ同じような世界が広がっていると分かりながら。
「…………ほらね」
さっきと変わらない、無機質というよりは虚無質な暗闇に微笑むような口が浮かんでいるだけだ。見渡す限りの奥行きのない闇に、ぼんやりと柔和な笑みが浮かんでいるだけ。あたりを染め上げる黒い染みに、例外のように浮かぶ女性的な唇。
 ……………………そろそろ、表現のバリエーションに限界が来ている。
「口?」
 そう私が口にした途端、合図を受けたかのように唇も話し出した。
「もうそろそろいい頃だと思わない?」
 唐突に、何の脈絡もなくそう告げた彼女(?)の声は、聞き覚えのあるような響きで私に染み込んでいった。音律が頭のどこか底の底に落ちていくように、古くなってしまった記憶の琴線に触れるように彼女の声は私に響いた。
「という訳だから、もう一回その目を閉じてみるのはどうかしら?」
「いや…………というって、どういう訳よ? というかこれはあれなの? 夢なの?」
 五日間の引きこもり生活と、ろくな物を食べてなかったことから来る栄養失調。そこから派生して起こる幻覚? 割と私、死ぬ一歩手前?
 よく分からない急展開に、思考は追い付いてこない。自分の頭の不出来を嘆く前に、思わず私は自分の目を擦った。
 ――――擦ってしまった。

Act -1
 遥か彼方まで延びる長方形のテーブル。そこに掛けられた純白の、染み一つ見当たらないテーブルクロスを色とりどりの、豪華な食事たちが飾っていた。
 目を擦ってもう一度あの口が現実か否かを見極めようとした私の目の前に、いきなり広がっていたのがこの光景だ。
「いや、そういう意味で目を瞑ったわけじゃないんだけど…………」
私は背もたれの異常に長い椅子に座り、右手にはナイフ、左手にはフォークを握っていた。
上品に胸元にはナプキンが掛けられていたが、皮肉なことに着ている服はいつも通りのボロ布だった――今更汚れが何だというの?
 よく見れば、ここは我が家の食堂だった。「我が家の」といっても、この家は既に私のものではないし、この食堂も私が使うことはほとんど無い。私はもっぱら料理人の作ったものを運んでくるだけだ。
 無駄にデカイこの空間は、会話を楽しむためか音が良く籠もる。少しだけ声のトーンを上げれば冗談のように遠い向かい側にまで声が届く。
 実際、今も良く聞こえている。幸いにも、ソレは私に向けての言葉ではない。
 冗談のように長いテーブルの向かい側から、目の前にある料理の山を貪り食う音が気色の悪いことに鮮明に私の鼓膜を揺らしていた。
 継母だ。
 バリバリムシャムシャクチャクチャゴリボリゴクゴクニチャニチャチューザグザクギジュギジュハグハグムシャクチャクチャゴブグブガリガリズルルムグムグゲッッッッッッップ!
 臭気がこちらまで漂ってきそうな気がして、とっさに胸元のナプキンを口に当てた。放っておけばテーブルまで平らげてしまいそうな暴食の締めに豪快なゲップをして小休止。彼女はグラスに注がれたワインを完全に無視してボトルごと胃に流し込む。
 吐き気を通り越していっそ気持ちの良い――訳ないけど――その姿は、彼女をよく象徴していた。
「…………強欲」これほどこの言葉が似合う人を私は知らない。目に映るものなら何でも、持っていない物をいくらでもこの女は欲しがる。
 父とその父の持つ財産、死後の遺産、彼の隣というちょっとした名誉、初めは私に至るまで彼女は欲しがった。猫なで声で擦り寄り気を許すまで媚を売った。
 前妻である母の死で弱っていた父は、あっさりこの女に篭絡されたけど、私は違った。一目あったその時から、眼の奥にあるどす黒い欲望を見抜くことが出来た。驚くほど、簡単に。
 そんな子の人を私は分かりやすく拒絶し、撥ね付け、邪険にした。ちょうど虫が嫌いな人が、虫に対してするように、徹底的に寄せ付けなかった。
 彼女はそれでも、それさえも父に取り入る材料にして、私たち親子を浸食していった。
 ――――父が死んでからの、彼女が私にとった態度は分かりやすかった。
『あなたなんてもう要らない』
 再び彼女が食事を開始した。食べても食べても減らない料理。食べても食べても足りない継母。
『この家にいたかったら、精一杯働きなさい。ここはもう、あたしの物なのだから』
 口に収まりきらなかった料理はこぼれ、純白のテーブルクロスにしみを作る。その光景が、嘘のようにはっきりと見えた。
 あたしの目の前にも、彼女と同じだけの料理が並べられている。心の明るい部分が、どんどん沈んでいくように感じた。
『いつまで見ているの? あなたの物なんて何一つないんだから下がりなさい』
 思い出すのは今まであの継母がお吐きになった台詞の数々。
現状がいまいち理解できないけれど、継母に向かって話しかける気にはなれなかった。あの人は、私が話すと笑うのだ。何を言っても、どう訴えても、常に同じように見下した目で笑うだけ。
 何を言っても戯言だと、くだらないことだと決め付けるあの目が、私は苦手だ。
 目線を落とせば料理。上げれば継母。私の世界は見たくないもので溢れている。
「食べないの?」
 声がしたほうを振り返れば、またあの口がいた。そこにいるのが当然とでも言うように空中に浮かんでいる。
「食べないの?」
 口はもう一度私に聞いた。握ったままのフォークとナイフを私はテーブルに投げ出した。
「結構よ」
 そう言い捨てた途端、両目を何か暖かいものでふさがれた。不思議と嫌な感じはしない。どうにも落ち込んだ気分のせいで、振り払う気力も湧いてこない。仕方が無いので言葉だけでも投げかけてみることにした。
「今度は何をするのよ?」
「次に行ってみましょう」
「次って何? というか今のは何だったの?」
「楽しみ?」
 どうにも、そういった性質なのか呪いか何かなのだろうか、この声の主は自分の言いたいことしか言わないらしい。質問に質問で返されると会話が成立しない。成立しない会話は空しいだけだ。私は会話を諦めて、この続きを想像することにした。恐らくこれは夢だろう。
 さすがに継母でも、あそこまでの暴食は出来ない――というかここまでの展開が現実的じゃない――。現実じゃないのなら夢だろう。
 まぁ、夢も現実も、私にとっては同じように不条理ではあるけどね。

 Act -2 
 目隠しが外れた。
「今度は…………いったい何?」
目の前には私の部屋に似た暗闇が広がっている。一つ違うのは、点々と何本もの蝋燭に火が灯され、所々で闇にまだらが出来ていることだ。
 光に照らし出されるのは家具だった。儚くも、それでいて暗闇の中においては絶対の存在感を放つ光に照らされる椅子、箪笥、棚、化粧台、低めのテーブル。どれもが意匠を凝らし、時間を掛けて作られたものだ。
 その家具は共通して普通のものより小さかった。本物をそのまま縮小したような精巧な創りの家具たち――なんでここまで分かるかというと、その家具たちは私が昔使っていたものに「良く似ている」からだ――に囲まれて部屋の真ん中には、少女が二人いた。
 いや、もう「女」といってもなんら問題ない年齢か。
 私はそれらを少し離れた位置から見ている。周りに明かりは無く、目の前に照らし出されるもの達と、自分がとてもかけ離れた存在のように感じた。
 二人は寄り添うように並んで、互いに耳打ちしあってはその都度クスクスと忍び笑いを漏らしていた。まるで現実の事に価値が無いとでも言うように、二人は噂話に夢中だ。
 この二人も知っている。継母の連れ子だ。
 確か私よりも二つほど年上だったはずだ。滑稽なことに、二人が今着ているのは子供用の寝間着だ。丈は足らず、成長した体にあっていないせいでボタンが弾け飛びそうになっている。何と言うか、これはこれで象徴的だ。やっていることは子どもの頃から大して変わってはいない。体が子どもで着ているものが大人なら、もっと的確に皮肉が利いていたかもしれない。
 この二人に対して特に説明することは無い。ただ家族として家に来たその日から八年間、私のことをネチネチいじめ続けただけだ。
 実際、この二人の人生の大部分はそれだろう。原稿用紙に三行程度で説明がつくほどの浅い人生を歩んできた人生の先輩だ。
「これはもういらないわ」
「そうね、そんなボロボロ、シンデレラにでもあげましょう」
「そうね、そうしましょう。きっとこんなものでもあの子なら喜ぶわ」
 姉妹がクスクスと笑う。 それと同時に何かがこちらに放り投げられた。緩やかな弧を描きソレが宙を舞う。次第にソレは高度を下げ加速しこちらに向かって――
「痛ったい!」
恐ろしいほど的確に私の顔に命中し、弱弱しい音を立てて目の前に落ちたのは、右手の取れたボロボロの人形だった。光の宿らないそのガラス玉の目と、私の目の視線が交差する。そして不気味なほど滑らかに、人形の口が動き出した。
『シンデレラ』
「な…………」
『シンデレラ、掃除は済んだの? まだ全然汚いじゃない。見ててあげるからもう一度やりなさいよ』
 声はそのまま姉妹のものだった。無表情な人形が実に特徴を捉えながら、姉妹の言葉を再生していく。
『シンデレラ、晩御飯はまだなの? 本当に愚図なんだから。さっさと持ってきなさいよ! あたしが空腹で死んじゃったらどうするの!?』
 ――――勝手に死ね。
『シンデレラ、煙突に何かが詰まったらしいの。私達は街まで行って買い物をしてくるから取っておいてね。帰ってくるまでにお屋敷が寒かったら堪らないわ』
 ――――お前らがやれ。
『シンデレラ。いつまでそんな格好でいるの? もう冬だって言うのに、そんな格好じゃ風邪を引いてしまうわよ? クスクス』
 ――――黙れ。
『シンデレラ』
――――うるさい。
『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』『シンデレラ』――
「うるさい! 私はシンデレラなんかじゃない!」
 怒りに任せて人形を踏みつぶした。それでも、声は聞こえてくる。足の裏から伝わってくる口の動きが気持ち悪くて何度も何度も踏みつける。
『シンデレラ』
「うるさい!」
『シンデレラ』
「うるさい黙れ!」
『シンデレラァ』
「うるさい! うるさい! うるさい!」
 もはや、人形は原型を留めていなかった。手足は?げ、ちぎれた布から綿が飛び出し、踏みつけられた生地は薄汚れてもとの色が分からない。
 しかし口だけは、相も変わらず狂ったオーケストラのように『シンデレラ』と私のことを呼び続ける。
「お願いだから…………もう、黙ってよ…………」
 耳を塞いだ。塞がずにはいられなかった。このまま聞き続けたら、私がどこかへ行ってしまう。私が私でなく本当に『シンデレラ』になってしまう。そんな気がして、それ以上聞くのが恐かった。
 否定しても否定しても、周りはそれを聞き入れない。自分以外に、自分を自分だと証明するものが見つからない。
 塞いでもなお、姉妹の忍び笑いと、人形の声は聞こえてくる。染み入るように、私の中に広がって、私を汚していく。私が、私が無くなっていく。
 気持ちが悪い。それでもって、泣きそうだ。体が次第に縮こまり、最後には消えうせてしまうような孤独感があって、それが辛くて必死に自分を抱きしめた。確かに感じる腕の感触が、ここまで希薄だったことがあるだろうか。
 私は、いつからここまで自分に自信が無くなってしまったのかしら? 
「ごめんね」
 また、声がした。前のほうから覆われるように視界が塞がれる。背中に回された腕が私を包むようにして抱きしめているのが分かった。
 ため息が出るような安堵感が、全てを話しても許してくれそうな安心感が、その腕の温もりから伝わってくる。
 そしてその感覚が自分のどこから来るのかという疑問より先に、目の前の視界が開けた。

Act -3
夢なんてものは意味の分からないモノだけれど。確かにソレは自分から出てきたものだ。だとしたら、この光景にも何かしらの「私」が含まれているのかしら?
一面が雪に覆われていた。ついでに言うと吹雪いていたが、不思議なことに寒くはなかった。
 見渡す限りの雪原に帽子を被った背の高い一人の男と、一人の小さな女の子が、寄り添うように立っていた。彼らの目の前には石を十字の形に切り出して作られた墓標がある。
 何かの目印のようにポツンと置かれた墓標は真新しく、磨き上げられていた。吹きすさぶ雪に半ば埋もれかけた墓標に刻まれた名前は私の知っているものだった。
 私の母の名前だ。
 並び立つ二人のうち片方は生前の父で、その隣にいる少女は幼い頃の私だ。
 二人ともじっと墓標を見つめている。父と娘が話もせずに、墓標に向かって視線を注ぐその光景はそれだけで私の心を物悲しくさせた。
どう見たってあれは私の過去だ。幼い顔立ちは十を超えたばかりだろうか、寒さに身を震わせて心細さからか、父の上着の裾をヒシと握っている。時々、様子を伺うように父の顔を見上げては、また母の墓標に視線を戻していた。
父はそんな私に気付かないままただ呆けたように、それでいて一心に墓標を見ていた。動く気配も、表情も無い父は墓標と同じく石で作られた石像のようだった。
雪によって漂白された風景に取り残されたような親子。
 しばらく、私は時間を忘れて――そもそも夢に時間なんて概念があるのか疑問だけど――二人を見ていた。
 静かで、それでいて虚しい世界だ。これまで見てきたもののどれよりも私をやるせなくさせる光景だった。何故なら、この光景は変わることがないからだ。既に起こってしまったことを見せられてるだけ。
 やり直しも回避も出来ない。唯々辛い過去の記憶だ。
 不意に父は帽子に積もった雪を払い、となりの私の顔を見て言った。
「何て顔をしているんだXXX、これは悲しいことなんかじゃないんだよ。さぁ、笑ってごらん」
 右手を少女の肩に置き、左手で頭を抱えるように父は過去の私を抱いた。
 過去の私はそれに答えるように父の背中に腕を回している。
 父は嘘つきだ。抱きしめられた腕から、父の震えが伝わってきたのを覚えている。きっと目の前の私は、まるで父を自分が抱きしめているような錯覚を覚えているのだろう。
 彼の腕は必死に何かにしがみ付こうとする漂流者のそれだ。自分を繋ぎ止めておきたくて、彼は私のことを抱いたのかもしれない。
それを見ながら久しぶりに自分の名前を聞いた気がした。
「…………XXX」
自分で呟いてみても、ソレはどこか他人行儀で余所余所しく聞こえた。まるで、自分のモノではないように馴染みの無い響きだった。
「XXX…………XXX……XXX……XXX」呟くたびに、ソレはどこか異国の言葉のように現実感が無いように感じる。
「XXX…………XXX……XXX」だというのに、私はその名前を呟くことに強い安堵を抱いていた。無くしてしまった、失くしてしまいそうな何かを必死に引き寄せるように、虚しくても止めることができなかった。
 ああ、そうだ。私はここしばらく、自分の名前を呼んでいなかったのだ。それが何を意味しているのかなんて分かりきってる。
 私は『シンデレラ』でいることに半ば慣れてきてしまっていたのだ。
夢の中だと言うのに冷め切った現実感が頭の中に染み出す。
 覚めるように過去の風景は消え失せた。雪も、墓標も、父も、過去の私も。何もかもが照明を落としたように消えて、代わりに闇が降りてきた。
私以外何も無い、あの部屋に戻ってきたようだ。今となっては「私」が確かにいるのかさえ怪しいものだ。ここに居るのは唯の、出来損ないの『シンデレラ』かもしれないのに。

Act 0.5
そこには机も棚も、床もベットも、星も風も音も、自分の体すら無い。ただ暗く広い空間に私という意識が佇み、もしくは浮かんでいるだけの世界だった。
後から生まれた『シンデレラ』という役割に染まりかけた、薄くて軽い、何かの宣伝文句のような私の自意識が、水に一滴落とした油みたいにポツンと混じらず漂っている。
そんな私は何を考えるだろうか。           
「XXX」
 また、あの声だ。あの声が私を呼んだ。
 意識的に後ろに振り返るイメージ。日の出を直視してしまったかのような強烈な光に視界が霞む。その光に浮き彫りにされるように、喪失していた私の体が現れた。
光の中には女性のシルエットが見える。逆光に照らされて全身が影で出来ているような風情だったけれど、私に話しかけていたあの口だけははっきりと見えていた。
「お母さん…………」
 何の疑問も無く、そうだと思った。目の前の彼女はそれに応じない。
「XXX、もう十分でしょう。もうあなたは十分なほど不幸だった。今まであなたは不幸なシンデレラとし生きました。でも、もういいの。これからあなたはWあなたWとしてだけに生きればいい」
「でも…………そんなこと継母が許すはずが…………」
「大丈夫、全部こっちでやっておきますから。問題なく上手くいきます。そう、あなたは幸せになれますとも。とりあえず起きたらベッドの下に手を突っ込んで見なさい。ドレスとか必要な物が出てきますから」
「もっといい収納場所は無かったの?」
「いいえありません。それとこれを――――」
 そう言って差し出されたのは一枚のチケットと小さな肖像画だった。流れるような金髪に木目細やかな肌、澄んだ瞳は微笑を湛え、軽薄な白い歯を見せながらはにかむ、何とも女受けしそうな顔の男だった。
 チケットには分かりやすく『王子の嫁探し夜会招待状』と書かれている。
「この会場に行ってこの王子様を落としてきなさい。大丈夫、大丈夫、絶対に上手くいきます。そういう風に段取ってあります。きっと連れ子が死ぬほど悔しがると思うので、八年分腹抱えて笑ってあげなさい」
 段々と不安になってきた。自分の母親の生前のノリがいまいち思い出せない。それだけの時間が経ったということなのだろうか。
「素敵な話だけど情緒も何も無いのね。えっと…………お母さん?」
「魔法使いとお呼びなさい!」
「――――はい! すみませんでした!」
ガバっと布団から跳ね起きる。低血圧気味の頭がひどく重く感じて壁からやっとのことで入ってきた朝日が目にしみた。
 ベッドの下には飲みかけのワインボトル――どうせだからとくすねてきた――パンやハムの食べカス、放置された洗濯物などが散乱していた。
 ボロボロの家具達に囲まれた、地の底のような屋根裏部屋だ。結局、私はここに戻ってきたわけだ。
 継母達の嫌いな所を再確認し、辛い過去を垣間見て、なんだかよく分からない母親に再会して、何も変わらず朝が来たということか。
「まったく、あんな夢見るくらい落ち込んで立ってこと?」
 舞踏会に出て王子に会って惚れさせて結婚させてあいつらを見返す? 夢が自分の真の欲望を映す鏡だというなら、そんなことを私は望んでいたという訳だ。
 まったく、馬鹿馬鹿しい! どうせなら今すぐ三人がみんな事故死でもする夢でも見ればよかった。そうすれば、いくらか胸のつっかえも取れたはずだ。
ただ…………。
『これからあなたはWあなたWとしてだけに生きればいい』
この文句だけは良かった。もしかしたらこれが私の本当の願いだったのかもしれない。『シンデレラ』という辛い日常に飲まれて、消えてしまいそうな自分を自覚させたかったのかもしれない。
 そう思うと、ここに帰ってきたことにさほど苦痛は感じなくなった。
 机の上にはちゃんと昔の私を描いた絵が置いてある。家族に囲まれて、素敵に笑っている可愛い――言い過ぎかしら?――少女が確かに居る。
 私が誰かなんて、初めから馬鹿な疑問だったんだ。あの頃から変わらない、どうしたって、何をされたって私は私でしかない。私にしかならない。
 転げ落ちないように慎重にベッドから降りる。ボサボサになっていた髪をとかして後ろでまとめればもう臨戦態勢だ。
「さて、もう少し反抗してみるか」
 目の前にあるドア――自分で封鎖して開かなくなってた――を蹴り開ける。とりあえず、食事をあいつらと同等のものにすることからはじめよう。
 私の人生は、まだ終わってなんかいない。

Act 2
 蹴り開けられたドアは盛大にその残骸を撒き散らした。金具に木片、ドアノブが強烈な蹴りによって宙へと投げ出された。
 部屋の主は猛然と階段を駆け下りていった。
 しばらくして、残された部屋には再び静寂が戻った。
 と、不意に一枚の紙が床に舞い落ちる。ドアに挟まっていたものが蹴り上げられて宙に舞い、時間差で落ちてきたのだろうか。
 よく見ればその紙は何かのチケットのようで『王子の嫁探し夜会招待状』と表に書いてある文字が薄く透けて見えた。裏側には別の筆記体で、何かのメモ書きのようなものが書いてあった。
『P,S, お城まで行く足の調達は自分でやってください(ハート)』
ソレは少し丸みを帯びた女性らしい、優しい字体だった。

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