紅色恋情

   九重 花芯

六月半ばの豪雨の中を、東條(とうじょう)春風(はるか)は寮を目指して全力で駆けていた。傘は、先程突風で壊れた。雨に濡れたくらいで風邪を引くほど軟弱なつもりはないが、決して歓迎できる状況ではない。
――ああもう、何でこの学校はこんなに敷地が広いかな。
 思わず、胸の内で愚痴を零す。この高校に入学して二ヶ月程経つが、この広さは全く以って無駄だと思う。
全身はびしょ濡れで、靴は泥だらけ。自慢の長い黒髪も、乱れ放題で見る影も無い。最悪だ。
ようやく寮に辿り着くと、ほっと息を吐き、玄関のドアを開けて――そして閉じた。
――最悪だ。今日は最悪な日だ。
 春風は、己の不運を呪った。一気に、全身に重い疲労が圧し掛かる。
 ドアがゆっくり開き、揶揄を含んだ声が掛かる。
「入らないの?」
 最後の望みを掛け、春風は尋ねた。
「……他の人は?」
「まだ帰って来てないよ。残念だったね」
 そう言って、彼――敷島蒼一(しきしまそういち)――は、嬉しそうに笑った。
     
「あーあ。酷いね、この傘」
 蒼一が、ソファに座りながら呟いた。その目は、大破した春風の傘に向けられている。
「凄い風でしたからね」
 シャワーを浴び終え、髪を乾かしながら、春風は溜息を吐く。気に入っていた傘だけに、落胆は大きい。
 蒼一は顔を上げ、春風の着ている、白地に藍色の紫陽花の散る浴衣を見つめた。華奢な銀縁の眼鏡越しに、彼の吊り気味の大きな目が細くなるのが見えた。
「それ、君のお祖母様のだね」
「……よく覚えてますね」
「記憶力には自信があるんだ」
 褒められたことが嬉しいのか、蒼一はにこりと笑った。
「それに、君に関することを、僕が忘れる訳が無い」
 付け加えられた言葉に、どう答えれば良いか分からず、春風は黙り込んだ。
        
 蒼一とは、春風が五歳の頃――両親を亡くして、父方の祖母に引き取られてすぐ――に知り合った。掛かり付けの医者の息子で、年が近かった事もあり、いつの間にか一緒に遊ぶ仲になった。
 よく一緒に遊び、時々喧嘩をするような、ごく普通の遊び相手だった。「大人になったら結婚しよう」と、定番のこっ恥ずかしい約束をした事もあったが、多分彼は覚えてもいないだろう。
 とにかく、何の変哲もない、ただの幼馴染みだったのだ。
――ある「秘密」を知るまでは。
 その秘密のために、春風は不安や苦痛、後ろめたさ等を抱え込む羽目に陥ったのだが、それでも彼と離れることはなかった――いや、離れることが出来なかった。 
 そんな二人の関係は、十一歳の時に祖母が亡くなり、母方の伯父の家に引き取られた時、終わったはずだった。
 だが結局、伯母との反りが合わず、半ば追い出されるような形で全寮制の高校に入学したことで、事態は大きく変化する。 
その際、設備の整った第一〜第六寮が満員で、古い洋館を手直しして使用しているという、定員十名前後の第七寮に入ることになったのだ。
 そのこと自体には別に不満は無かった。大正時代頃に貴族の別荘として建 てら れたというそれは、亡き父に似てレトロ趣味な春風の目に、非常に好ましく映った。入寮する時も、これからの学生生活に期待を膨らませたものだ。
だが、その期待は、寮のドアを開けた瞬間、脆くも崩れ去った。一年先に入寮していた蒼一が、満面の笑みで迎えてくれたのだ。
それから約二ヶ月、春風は受難の日々を送ることとなる。

「ねえ、春風」
「何ですか?」
 嫌な予感がする。咄嗟にそう感じたが、平静を装って答えた。
 蒼一が、じっと春風の目を見つめながら言う。
「そろそろ、くれない?」
「な、何を?」
 思わず、ぎこちない口調になってしまった。本当は、彼が何を求めているかなんて、分かっている。分かっているのだが――
 そんな内心を、彼は察しているのか否か。当然のように答えた。
「血」
「血」――文字通り、体内を流れる紅い液体の事だ。蒼一は、春風の血を要求している。輸血では無い。直接、春風の皮膚に歯を突き立て、血を啜る。

――彼は、「吸血鬼」の末裔なのだ。

 本人に言わせると、普通の人間の血が混ざっているので、純血の吸血鬼に比べるとその能力は弱いらしいが、それでも人間の血を欲するという点では、充分吸血鬼としての条件を満たしている。
「駄目です」
「何で? 昔はくれたのに」
 不満そうな口調で、蒼一が尋ねた。恨めしげな視線で、じっと睨みつけてくる。
 確かに、幼い頃春風は、彼に血を提供していた。それも一度や二度ではない。彼の正体を知ってから、祖母が亡くなるまでの間、定期的に何度もだ。
「何でって、私が引っ越す時に約束したじゃないですか。『もう血は吸わない』って」
 春風の言葉に、彼はしれっととした口調で答える。
「ああ、したよ。約束を守ろうと努力もした。でも、一度目覚めた本能を抑えるのは、やっぱり無理だった」
「……まさか、誰かを襲ったんですか?」
 蒼一が、苦笑交じりに答える。
「違うよ。僕の家は医院だから、輸血用血液を時々失敬してたんだ。それでも足りない時は、夜中に野良犬とか烏なんかを捕まえて血を吸ってた。どっちも大して美味しく無かったけど、とりあえず飢えは凌げたよ」
 彼が、暗闇の中で犬や烏の血を啜っている様子を想像し、春風はぞっとした。やはり彼は、人の形をした化け物だ。そう思わざるを得ない。
「それ、お父様はご存知だったんですか?」
「多分ね。でも、人に襲い掛かるよりはましだろうって、
黙認してたらしい」
「……でしょうね」
 蒼一の父親の顔を思い浮かべ、春風は納得する。確かに彼は、無理矢理我が子を矯正するような人ではないだろう。それに、彼自身も吸血鬼だ。息子以上に血への欲求が強いであろう彼が、息子に対して強く言えるはずもない。
やはり、期待するだけ無駄だったようだ。それでも、人に迷惑を掛けなかっただけ、ましだと思うべきだろうが。
「それは、こっちに来てからもですか?」
「ああ。輸血用血液は流石に手に入らないけど、この辺は犬も烏も多いからね。でも、寮生活だと監視が厳しいから、なかなか狩りに行けなくて。あまり多くは飲めないんだよね」
 蒼一が、甘えるように上目遣いに見上げる。吸血鬼の多くは、成長も老化も遅いらしい。彼は混血種なので、成長のペースは人間に近い方だが、それでも普通の人間に比べると、年の割に幼く見える。何も知らない人が彼を見たら、十二、三歳くらいだと思うだろう。
 だが、彼の性根が見た目通りの可愛らしいものではない
ことを、春風は嫌というほど思い知らされている。上目遣
いごときで、心を動かしてはいけない。
「少しとは言え、血は手に入ってるんですね。だったらそれで我慢して下さい」
 冷たくそう言い放ち、さっさと台所に向かった。この寮には、家事の出来る人間が春風しかいないため、必然的に彼女がおさんどん役をさせられている。食べ盛りの同居人達が帰って来る前に、夕食を作らねばならない。
 蒼一が苛立たしげに叫んだ。
「何言ってるんだよ。せっかく美味しい血の持ち主が目の前にいるのに、どうして不味い上に少ししか手に入らない犬や烏の血で我慢しなきゃいけないのさ。君の言ってることは、焼きたてのステーキが目の前にあるのに、薄っぺらいハム一枚で我慢しろって事に等しいぞ。しかも空腹時にだぞ。酷だとは思わないのか!?」
「年頃の女の子を肉に例えないで下さい。失礼な。大体、毎回毎回噛み付かれて血を吸われる私の身にもなって下さいよ。あれ、もの凄く痛いんですけど?」
 春風の反論に、蒼一は薄く笑う。
「……痛いだけじゃないくせに」
 春風は、ピクリと動きを止めた。眉根に皺が寄るのが春風自身にも分かる。
 確かに、再会から二ヶ月近くお預けを食らっている彼の苛立ちも分からないではない。正直、少しくらいなら提供してやろうかという気持ちも、僅かだがあったのだ。
 だが、今の一言で完全にその気は失せた。
「血は一滴たりともあげませんっ!!」
 それだけ言うと、春風は乱暴に冷蔵庫を空け、夕食の材料になりそうな物を探し始めた。
 しばらくの間、蒼一は何も言わなかった。絡み付くような視線を感じたが、春風は努めて気付かない振りをした。
 冷蔵庫の中に、豚肉と人参があった。一昨日、ジャガイモと玉葱を買った事を思い出す。
――今日はカレーでいいか。こいつのせいで疲れたし。
凝った料理を作る気力は、今の春風には残っていない。
食材を取り出して、冷蔵庫の扉を閉める。
その瞬間、沈黙が破られた。
 蒼一が、肩を震わせながら笑い出したのだ。
「何が可笑しいんですか?」
 そう問うたが、蒼一は答えない。相変わらず、可笑しくて堪らないと言う様子で笑い続ける。
「……馬鹿にしてるんだったら怒りますよ」
 春風が、きつく睨み付けると、ようやく蒼一は笑いを収めた。
「ごめんごめん、馬鹿にした訳じゃないよ……そうか、だからあんなに嫌がってたのか」
 彼は納得したように言うと、さりげなく眼鏡を直す。
春風は警戒した。今のは、何かを企んでいる時の癖だ。
 だが、彼は予想外の発言をした。
「分かった、そんなに嫌なら、君からは血を吸わないよ」
「……はぇ?」
 思わず、間抜けな声を上げてしまった。
「本気ですか?」
 不信感剥き出しの質問に、蒼一は朗らかに笑って答えた。
「もちろん。君の血を飲みたいのは山々だけど、そのために嫌われたくはないからね」
「はあ……そうですか」
 春風は、気の抜けたような返事しか出来なかった。よく分からないが、とりあえず当面の危機は去ったらしい。そう結論付け、ほっと胸を撫で下ろす。
 が、春風は忘れていた。彼が、そんな一筋縄では行かない男だということを。
「そういう訳で、他を当たってみるから」
「……はい?」
 あっさりと、彼は不穏な一言を発した。
「だから、君が駄目なら、他の女の子の血を吸うってこと」
「――!!」
 絶句した春風に構わず、蒼一は淡々と続ける。 
「他の女の子の血でも、味は君程じゃないけど、犬や烏よりはマシだし、何より量が充分だ。正直かなり飢えてるからね。この辺をうろついてるような、痩せこけた野良犬程度じゃ足りないよ」
「な、何を言って……」
「そうだな、身近な所で、君のお友達の亜海ちゃんなんかいいかもね。非力だから、抵抗されても大して手間取らなそうだし、気が弱いから、ちょっと脅せば口外しないでくれそうだし。でもあの娘、ちょっと貧血気味っぽいから、気を付けないと――」
 春風の怒りが、一瞬で沸点を超えた。蒼一が言い終わるより先に、無意識に身体が動き出す。
無言のまま、猛スピードで蒼一の元へ走り寄ると、春風は憤怒の鉄拳を振り降ろした。「外見詐欺」と言われる程細身だが、これでも合気道有段者だ。普通の人間なら一たまりもないだろう――普通の人間なら。
「相変わらず、こういうことを言うと怒るんだね。昔とちっとも変わらない」
 春風の手首を楽々と掴み、蒼一は唇の端を吊り上げた。
 振り払おうとしたが、びくともしない。混血種とはいえ吸血鬼である彼の腕力は、人間のそれを軽く上回る。これこそ正真正銘の「外見詐欺」だ。
 眼鏡越しの蒼一の目が、爛々と輝く。獲物を捕らえ、どういたぶってやろうかと思案している獣の目だ。
「どうも忘れてるみたいだけどね、僕がその気になれば、君の意思なんて簡単に無視出来るんだよ。何だったら、力任せに君を捻じ伏せて、その細い身体を引き裂いて、無理矢理血を啜ってみせようか? 『あの時』みたいに」
「……あの、時……?」
喉の粘膜が渇いて、ひりついている気がして、上手く発音出来なかった。嫌な汗が背中を伝う。
思い出してはいけない。そう警告する声がどこかで聞こえたが、制止するより先に、勝手に記憶が甦る。
 
 雨の音。湿った土の感触。錆び臭い血の匂い。
 ――痛い、痛い、いたい。
 狂ったように叫んだ。叫びすぎて喉が枯れたが、それでもまだ掠れた悲鳴を上げ続けた。
小さな手は、必死で地面を掴もうとする。その身を引き裂き、血を啜る化け物から逃れるために。だが、その手はすぐに捻じ伏せられた。
――身体から、血が、命が、流れ出てゆく。おとうさんと、おかあさんのように。
空気に触れて酸化してゆく血。冷えて、硬くなってゆく、魂を失った身体。
救えなかった。ただ、死にゆく様を、見つめることしか出来なかった。恐怖に、無力感に、絶望感に塗りたくられた、幼い日の記憶――
――わたしも、死ぬの? あの人たちみたいに、冷た
く硬くなってしまうの? 嫌、嫌!! 死にたくない。わたしは、まだ――
 痛覚が、意識が、遠ざかってゆく。身体が、急速に冷えていくような気がした。きっと、死ぬんだろう。諦めに近い気持ちで、そう思った。
 意識が完全に闇に落ちる寸前、彼の紺碧の瞳が目に入る。
 その瞳は、泣き出しそうに濡れて見えた。

「……どうしたのかな? 青い顔しちゃって。まだ何もしてないのに」
 蒼一が、くすくすと笑う。春風の反応がお気に召したらしい。満足げな口調で呟いた。
「まあでも、強引に血を吸って、恐い思いをさせるのは可哀想だね」
 蒼一は手首に力を篭めた。痛い、と春風が小さくうめいたが、構わず、そのまま強引に春風を引き寄せる。
 蒼一の上に屈み込むような姿勢になった春風の耳元に、蒼一は囁きかけた。
「もし君がどうしても嫌だって言うなら、君の血は諦めよう。その代わり、君の大事なお友達から血を貰う。かつての君と同じ苦痛を、彼女にも味わわせる事になるけどね」
 蒼一の声は、幼子をあやすように優しいが、言っている
ことはこれ以上無いくらい残酷だ。
 春風自身が餌食になるか、保身のために友人を生贄にするか、選べと言うのだ。
「選ぶのは君だよ。春風」
――鬼。悪魔。サド。鬼畜。人でなし。外道。変態眼鏡。
胸の内で、思い浮かぶ限りの罵詈雑言を並べ立てる。殴ってやりたい。その眼鏡をかち割ってやりたい。
これでは、選択肢などないに等しいではないか。
「……離して下さい」
 そう言うと、蒼一はあっさり離してくれた。立ち上がった春風を、問うような目で見つめる。
 数秒の沈黙の後、春風は深く溜息を吐いた。
「私の部屋に来て下さい。ここだと、他の人が帰って来た時に見られてしまいますから」
 蒼一は、笑って立ち上がった。
 悪魔の微笑とは、こういうものを言うのだろう、と春風はぼんやりと思った。

 部屋のドアを閉め、春風はベッドに腰掛ける。
 電気は付けなかった。明るい光の下で行うには、少々後ろめたい行為のような気がしたのだ。
「そんな、この世の終わりみたいな顔をしなくても良いじゃないか。別に死ぬ訳じゃなし」
 蒼一が苦笑を浮かべてそう言ったが、春風は無視した。 黙って浴衣の袖を捲り、腕を差し出す。
 吸血鬼と言うと、首から血を吸うのが一般的なイメージだが、実際は、場所が場所だけに危険なので、腕か足からが殆どらしい。もっとも、相手の命など知ったことではないというなら、首から吸うのが一番吸い易いそうだが。
 蒼一は、春風の前に跪き、大切な物に触れるかのようにそっと春風の腕に手を添える。
「相変わらず、白くて綺麗な腕だ。傷付けるのが勿体ない」
「だったら、止めてくれませんか」
「それは無理」
 あっさりとそう答えると、蒼一は、かつてそうしていたように、春風の腕にそっと接吻を落とす。そして、何の断りもないまま腕に歯を立て、強く噛み付いた。
「ッ……!!」
 激痛に息が詰まり、表情が歪む。その様を、蒼一は喜々とした目で見上げていた。
 こいつは昔からそうだった。春風が苦痛に耐える様を見るのが、何よりも楽しい。そういう男だ。
 ――最低だ。この男も、一時とは言え彼に親愛の情を抱いていた馬鹿な自分も。
 意識が霞むほどの苦痛の中で、春風はそう思った。どうして、彼から逃げなかったのだろう。一緒にいればいるほど、苦しむだけだと分かっていたはずなのに。
 傷口から、血液が流れ出てゆく感触。脈打つ鼓動。次第に鈍くなってゆく痛覚。
 春風の身体は、この感覚を覚えていた。そして、この次に来る感覚も。
「……ぅ、ん……」
 抑えきれず、うめくような声が漏れた。背筋がざわめき、体温がせり上がり、皮膚感覚が鋭敏になる。蒼一が、春風の反応に気付いたのだろう、唇の端が吊り上った。
 傷口から一筋、血が流れた。蒼一は、春風と目を合わせたまま、見せ付けるようにゆっくりと舐め上げる。
その瞬間、春風の身体は電流が流れたかのように跳ね上がった。
「ぃ、やっ!!」
 小さく拒絶の声を上げ、咄嗟に腕を引こうとしたが、蒼一はそれを許さなかった。
 吸血鬼の唾液には、相手の苦痛や不快感を和らげる成分が含まれているのだと、幼い頃、蒼一から聞いたことを思い出す。そして、相手の体質によっては、それが「ビヤク」ような作用を引き起こすということも。 もっとも、当時は、「ビヤク」の意味など知らなかったが。
 だが、今の春風はその単語の意味を知っている。そして、この愉悦の正体も。知っているから、頑なに彼に血を与えることを拒んだのだ。
 蒼一が、わざと濡れた音を立てて強く吸い上げた。思わず、あられもない声を上げそうになり、きつく唇を噛んで耐えた。
 ――嫌いだ。こんな男大嫌いだ。
 血を吸うだけなら、何もこんなことを――愉悦を誘うような真似をしなくても良いではないか。こいつの前で、浅ましい姿を曝け出す位なら、ただ痛みに耐えるほうがずっとマシだ。
 ――あんたは、私をただの餌だとしか思っていない癖に。
 身体が震え、目元に涙が滲む。哀しいのか、悔しいのか、苦しいのか。春風自身にも分からなかった。もはや、正常な思考など残っていない。ただ、一刻も早くこの熱と愉悦から解放して欲しい。それだけしかなかった。
 不意に、蒼一が春風の腕を離した。
「……唇から血が出てる。強く噛み過ぎだよ」
 窘めるようにそう言うと、彼は春風の血の滲んだ唇を舐める。咄嗟に、春風は彼から逃れようと身を捩った。
その時――
「春風っ!?」
 驚いたような蒼一の声が聞こえたかと思った瞬間、春風は床に崩れ落ちるように倒れていた。
 慌てて起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。
どうやら貧血を起こしたらしい、と気付いた頃には、視界がぼやけ始めていた。
この馬鹿、多く吸い過ぎだ。そう言おうとしたが、唇も思うように動かなかった。
「春風、しっかりしろ。大丈夫か!?」
 蒼一が、慌てて春風の身体を抱え上げ、ベッドに寝かせた。さっき意地の悪い笑みが嘘のように、焦りと心配の入り混じった表情を浮かべて覗き込む。
「……ら、きら……」
 呂律の回らない唇が、言葉にならない声を発する。
――だから、嫌いなんだ。こんな時だけ。
春風の言葉を聞き取ろうと、蒼一が顔を近づけた。
「春風、どうした?」
――こんな時だけ、そんな、優しい顔をするから。
そう思った瞬間、春風の意識は深い闇へと落ちていった。

どうやら、軽い貧血で済んだらしい。
そう判断すると、蒼一はほっと胸を撫で下ろした。久々の――それも一番好みの――血だったために、つい吸いすぎてしまったのだ。
もう少し加減を覚えないといけないな、と反省しながら、蒼一はベッドの端に腰掛け、横たわる春風の寝顔を眺めた。
「いつ見ても、人形みたいな綺麗な顔だね」
 元々抜けるように白い肌は、貧血のせいでさらに青ざめて見えるが、それでも彼女の美貌には何ら遜色はない。艶やかな長い黒髪は、滝のようにベッドに流れ、肌やシーツの白に鮮やかに映えている。その髪をそっと撫でると、まだ僅かに湿り気を残していた。
 蒼一は、春風の目が好きだ。怒ると、刃物のように鋭い光を放つ切れ長の目は、同時に酷く艶やかで美しいのだ。その目が見たいがために、彼女を怒らせるようなことばかりしていると言っても過言ではない。
だが、もっと好きなのは、吸血の最中の表情だ。苦痛と愉悦の狭間で悶え、それでも理性を手放すまいと足掻く姿が、愛しくてならない。きっと、彼女が知ったら、悪趣味だと言って顔を顰めるのだろう。
――そんな表情も見てみたいと思ってしまう僕は、やっぱり悪趣味なんだろうな。
ふと、気になって春風の腕を見た。
 かなり深い傷だったが、既に血は止まっていた。この様子なら、一週間と待たずに綺麗に治るだろう。彼女は、人間にしては治癒力が高いのだ。
 純血の吸血鬼が人間を噛むと、その人間も吸血鬼になると、蒼一は父から聞いたことがある。蒼一自身は混血種なので、何度吸血しても、春風が吸血鬼になることはなかったが。それでも彼女の治癒力の高さや、華奢な外見を無視した筋力の強さを考えると、彼女の体質に多少の影響は与えているらしい。
「君も災難だね。僕みたいな化け物に好かれるなんて」
 自嘲気味に呟き、蒼一は微かに笑うと、傷口を消毒し、慣れた手つきで包帯を巻いてやる。そして、起こさないようにそっと毛布をかけてやった。
窓の外を見ると、相変わらず激しい雨が降り注ぎ、窓ガラスを強く叩いている。
そう言えば、「あの時」――本能に負けて、初めて彼女の血を吸った日――も、確かこんな雨だったと、蒼一はぼんやりと思い出した。
彼女の怯えた表情や悲鳴を、蒼一は生涯忘れないだろう。彼女を傷付け、それまでの二人の関係を歪ませてしまったことへの密かな後悔を共に。
――可哀想な春風。だけど、もう逃がしてなんかやらないよ。君がどんなに僕を嫌い、恐れていようとも。
 もしかしたら、もう二度と逢えないかも知れないと思っていた相手が、再び自分の元へ戻ってきたのだ。今度こそ、絶対に離しはしない。自分はもう、連れ去られてゆく春風を、泣きながら見送ることしか出来なかった幼子ではないのだから。
例え春風が、自分達を捕食者と獲物という関係だとしか認識していないとしても、彼女を繋ぎとめておけるなら、それで良い。人を傷付ける位なら、自分が我慢する方がましだなどと考える彼女のことだ。蒼一が、他の誰かを襲う危険性をちらつかせている限り、彼女は蒼一から離れることは出来ないだろう。
 ――全く、甘い性格だ。君も、そして、報われるはずのない想いを捨 てら れない僕も。
 やがて蒼一は、深く溜息を吐きながら立ち上がる。
そして、春風の頬に掛かった髪を払ってやり、まだ血の付いている唇に、優しく接吻を落とした。
「……………」
 陳腐で、そして切実な囁きは、意識のない耳元には届かなかっただろう。
 彼女の様子が変わらないことを確認すると、蒼一は雨音の響く薄暗い部屋を後にした。
 
                 (END)

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