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   tenkyo

 一秒。
 その一秒の動作で、僕は建物の中から外へと踏み出た。
 外に出た瞬間、冷たい空気に胸を叩かれて僕はコートの前を閉める。
 気付いたら十二月はもう半ばを越していて、空気は留まることを知らない勢いで冷気を孕んでいった。冬の空気は肌の露出した部分を目ざとく見つけては容赦なく突き刺す。今日はまだ、強い風がないのが救いだ。
 それでも、寒いものは寒い。僕は冷たくなる前に、両手をポケットに突っ込んだ。
 口を開けっ放しにしたドアから流れ出ていく少年少女の群れから外れて、僕は歩みを止めた。振り返って、その群れに目を向ける。別に、誰かを待っているわけじゃない。そういう約束はしていなかった。
 壁に背をもたれて、歩いていく彼らのことをなんとなく見ていた。一人で帰る奴も、友達と話して笑っている奴も、みんなどこか、その表情の下に不安を抱えているように見えた。たぶん、彼らから見たら僕もきっと似たような表情をしているんだろう。
 そんな表情をした連中が一箇所に集まると、その場の空気まで一緒になってそんな表情をするのだということを、僕はここに来て初めて知った。この予備校に通いだしてしばらく経つけど、彼らが放つ張り詰めたような空気にはまだ慣れない。
 クラスの講師はその顔を見せるたび、そこだけがしっかりHD音質で録音されたみたいな同じ調子と同じ声音で、同じ言葉を繰り返す――“猶予期間は終わった”。刷り込み効果は十分だ。その言葉のおかげで、僕にはすっかり余裕がない。
 徐々にまばらになっていく人の流れを見ながら、僕はそこにぼーっと突っ立っていた。そうやって、僕はだいたい六分くらいを消費した。360秒。十分まで経ったら、その場を離れて帰路につくことにしている。いつもそうしているから、今日もそうしなければならない。あと240秒くらい。
 何をするでもなく、僕はそこでただ時間を消費した。あと200秒。冷気に撫でられて顔が冷たくなるのが嫌で、僕はマフラーを引っ張り上げて口元を隠した。あと100秒。ひたすら時間だけを消費するどうしようもない行為を、僕は続けた。もう少し。十分経ってしまったら、すぐさまここを離れよう。そうしないと、なんというかこう、みっともないからだ。
 別に、誰かを待っているわけじゃないんだから。
 あと30秒。
 もう時間だ。僕は背中で壁を押すようにして、寄りかかっていた身体を起こした。目を瞑って、最後の時間を数える。
 と、
 ぴと――と、首筋に冷たい感触が来た。
「おひゃっ。」
 突然来た感触に、僕の口からアホすぎる声が飛び出す。声と一緒に身体まで飛び上がるが、僕の首に触れた冷たいものはまだ離れない。後ろを見なくても、僕の首を誰かの手が掴んでいるのだとわかった。それも、両手だ。
「間抜けな声。」
 耳の後ろから、とても聞き覚えのある、彼女の声がした。
 僕は振り返らず、その声に応える。
「……うっさい。」
 僕の左側から、彼女が身を乗り出すようにして僕の顔を覗き込んだ。
 その両手は僕の首を掴んだまま。
「顔も間抜けだ。」
「……キミのほうから見ると、屈折率の関係で顔が歪んで見えるのさ。ホントはものすごい美形なのに。」
「バーカ。」
 彼女はけたけた笑った。
「冷たいんだけど。」
「私は暖かいよ。」
「……なんでそんな手冷たいのさ。」
「手が冷たい人は、心が暖かいって言うよ。」
「人の首筋を容赦なく冷却攻撃するようなヤツの心は、あんまり暖かくないと思うんだけど。」
 彼女はまた笑って、僕の首から手を離した。
「帰ろ?」
「そのつもりだったよ。」
 そのとき、僕が数えていた時間はもう終わっていて、彼女が来てからの新しい時間が始まっていた。いま五分くらい。いくつか言葉を交わしてから、僕らはいつものように並んで歩き出した。僕がその場に突っ立っていていい時間はもう終わっていたし、僕がそこで立っている必要もなくなったからだ。
 別に、誰かを待っていたわけじゃないから。
 別に、そういう約束をしているわけじゃないから。
 歩き始めると、彼女は僕の首から手を離した。その瞬間、手で覆われていた部分に風が流れ込んで、一気に冷たくなった。僕はまたマフラーを引っ張り上げて口元を隠し、両手はコートのポケットに突っ込んだ。寒いのは嫌いだ。
 彼女は僕が来る前からここに通っていたらしく、初めてすれ違ったとき、すっかり慣れているといった感じのベ テラ ンの表情で、僕のことを見てきたのを覚えている。彼女と僕は同じ学校で、去年まではクラスも同じである程度の面識があった。でも今年になってクラスも分かれてしまったし、今となっては学校で特に会話することもなかった。
 ここでも、別に同じクラスで同じ内容の授業を隣同士で受けているとかいうワケでもない。通いだすのと同時に僕に課された実力試験があまりに厳正であったせいで、僕はある程度どうしようもない実力者たちが集うクラスに配属された。彼女はその二つ隣の、ベタに「特進」とか書かれたクラスにいつも優雅に通っている。要するに、彼女のほうが僕より圧倒的に頭がいい。
 そしてこうやって並んで歩くのも、どっちかが言って取り決めたことでもない。たまたまクラスの終了時間が同じだった二人がたまたまかち合って、適当に話をしているうちにそうなって、それが今になってもたまに起こっているだけのことだ。
 そんなもんだ。
「模試、どうだった?」
「ああ、僕は数学が一番得意だからね。99点だったよ。」
「はい、正直に。」
「……ひっくり返して99、だけど。」
「バーカ。」
 どっちかと言うと、そうやって何度も見たのと同じ顔でけたけた笑う彼女のほうが、バカっぽい気がするんだけど。
 道路沿いを伸びる僕らの帰り道は、あるところで分かれ道に差し掛かる。そこをそのまま直進すれば駅への近道。右に曲がれば、少しだけど、回り道になる。
 僕らはいつも通り、そこを右に曲がった。
 回り道の先には公園がある。僕の少し前を歩く彼女は、僕に何か言うこともなく、その中へ入っていった。僕も何も言わずその後ろをついていく。街灯の気だるい光の下、そこには僕らの姿のほかにはなにもなかった。
 彼女はすっかり冷えてそうなベンチに座ると、小銭入れを出して僕に投げた。それを受け取って、僕は脇の自販機の前に立った。彼女の120円を入れて、ボタンを押す。僕も財布を出して、自分の分の120円を入れて、ボタンを押す。
 出てきた二本のコーヒーを持って、僕は彼女の隣に戻った。この瞬間も、僕らのいつもの時間の中に含まれている。120円の代替物を片手に片手に交わす会話の後、ゴミ箱に缶を投げ捨てる瞬間まで、僕らの時間は続く。この240円分の会話が、僕らの時間の最後だ。
 冷たい風に髪を揺らされながら、僕らは喋った。他愛ない話、二人しか知らない話、彼女しか知らない話、僕しか知らない話。でも何の話をしていても、彼女の思考は自然とある一点に向かって軌道修正されるらしかった。ちょっと重症だ。
「あと一ヶ月だって。」
 ぽつり、と、彼女がこぼした。
 その一言だけで、僕には何のことか解った。僕も同じくらい重症だからだ。
 彼女の言葉と重ねて、僕はもうひとつ言葉を思い出した――“猶予期間は終わった”。
 本当に、呆れるほどに、もう時間は残っていない。
「……そうだね。」
 溜息みたいな声で、僕は応えた。
 こうしてる間も、一秒ずつ、そのときは近づく。それを知っていながら、僕ら二人は動かずに喋った。抵抗のつもりか、諦めてるのか、僕にもよく解らないけど。
「すぐ、過ぎちゃうんだろうな。」
 彼女とまったく同じことを、僕も思った。
 いつの間にか僕の頭の中に取り付けられていた根拠不明の焦りが、ここのところ僕の時間をすっ飛ばし続けている。最後の一日のために全ての時間を使おうとしているせいで、積み上げられていく一日一日が、そのひとつひとつではまったく意味を持たないような、そんな気がしていた。
 僕のこの一年間を最も簡単に表現できる単語を、僕は知っている。
“あっという間”。
「なんでこんなこと、やってんだろ。」
 また、彼女がこぼした。
「みんなやってるからじゃないの。」
「みんながやってるからって、自分もやるの?」
「少なくとも、誰もやらなかったら、こんなもんそもそも存在しないでしょ。」
 僕は面白くもない言葉を返しながら、今もまた過ぎていった一秒のことを考えて憂鬱になった。
 誰に教わったわけでもないのに、生まれて初めての呼吸をしたあのとき――誰に決められたわけでもないのに、誰も彼もと同じように泣き叫んでみせたあのとき、一秒は人生の100%を占めていた。
 でもそれから十八年が経過してしまった今、一秒は人生の五億分の一にも満たない。
 カスみたいなもんだ。
 一秒ごとに、僕の周りに一秒が積み上げられて、その度に価値の割合が低くなっていく。
「僕は、そう思うけど。」
「変えたく、ない?」
「……何を?」
 こうしている今も、僕の一秒は刻々と、とてつもない加速度でその価値を失くしていっている。そして、その価値はこれから先ずっと、今以上の価値になることはない。
「この、今の感じ、とか。」
「……どうだろうね。」
「楽しいよ、きっと。変わったら。」
「僕は――、このままで、いい。」
 積み上げられていくカスの山の中に埋もれて、僕は呼吸を続ける。そうしている間にもまた新たに積み上げられるカスを、僕はその呼吸の度に吸い込む。そんなことを続けているうち、僕はいつかカスで息を詰まらせて死ぬだろう。
「変えてるヒマがあったら、僕はさっさと終わらせたいね。」
 僕の生き方はただの自殺だ。
 彼女は僕の言葉に、何も返さなかった。
 コーヒーの中身がなくなったので、僕は缶をゴミ箱に向かって投げた。夜中の暗闇にやけに通る音がして、缶が箱の中に落ちた。僕がちょっと得意になっていると、その三秒後に、同じ音が僕が入れたのよりもっと遠くのゴミ箱を鳴らした。
 隣を見ると、彼女がこっちを見て笑っていた。
 僕は苦笑で返して、立ち上がる。
 時間の終わりだ。
 三十分くらい話していたと思う。1800秒。
 粉末状になった一秒が1800個、僕の頭の上に撒き散らされていた。
 空気が冷たくて、僕は両手をポケットに突っ込んだ。彼女が立ち上がって隣に来るのを待ってから、僕は歩き出す。何度も通ったいつもの道を、僕たちは歩き始めた。右側で歩く彼女の口から、言葉の代わりに白い息がずっと吐き出されていた。
 僕の右足と彼女の左足の距離が、いつもよりずっと近かった。
 僕はまた、今も過ぎていった一秒のことを考えて憂鬱になる。
 降り積もるカスが僕の身体にまとわりついて、僕自身の形が変わっていくのがはっきりと知覚できた。僕の意思と関係なく、時間と一緒に僕の全てが変えられていっているのがわかった。姿も、思考も、嫌悪も、興味も、環境も、関係も。
 それがいやだった。
 出来ることなら、ずっとこのまま変わりたくなかった。
 時間が――、
「時間が、止まればいいのに。」
 彼女がこぼした。
 沈黙が続いた。
 10秒くらい。
 その10秒間、僕らは言葉を抜きにして歩いた。
 最初に比べて、僕らの歩く速度はかなり緩やかになっていた。一歩ごとに、二人が分かれる駅が近づいてきていた。どんなにゆっくり歩いていても、歩けば道は過ぎる。
 二人で歩く時間は終わる。
「そうだね。」
 10秒越しに、僕は答えた。
 僕はさっき、彼女の言葉の意味に気付いていないふりをした。彼女の言葉に、真正面から応えることができずに、はぐらかしてみせた。
 彼女はきっと、それを解っている。
 だからこんなクソ寒い中、手袋もしないで片手をコートの外でぷらぷらさせている。
 僕らを変えるスイッチがどこにあるのか、僕がそれを知っていることを、彼女は知っている。僕がそのスイッチを押せることに、彼女は気付いている。
 彼女はそれを期待している。
 僕も、それはよく解っている。
 だから両手はコートのポケットに突っ込んだまま、決して外には出さない。
 僕が少し手を伸ばすだけで、僕らの関係をすぐ変えてしまえることに、僕は気付いていた。でも、そのつもりはなかった。今の僕らが変わってしまうことで、今の僕らが消えてしまうことがいやだった。
 僕に、その勇気はなかった。
 出来ることなら、ずっとこのまま変わりたくなかった。
 歩いているうち、僕らは駅についた。周りには誰もいない。
 彼女が僕に振り返って、口を開いた。
「またね。」
 そう言いながら彼女が上げてみせた左手は赤みを増していて、見るからにかじかんでいた。
 僕は少し黙った。
 3秒くらい。
 僕はポケットから片手を出して、彼女に向けて小さく上げた。彼女の手と僕の手の間の距離を、僕は眺めた。ほんの少し手を伸ばすだけで届くその距離を、僕は眺めていた。
 たったそれだけで――たった一秒の動きで。
 五億分の一以下の、カスみたいな一秒の勇気で変えられるその距離を、僕はじっと眺めた。
 ほんの一秒、手を前に出すだけで触れられるそのスイッチを、僕は見た。
 彼女のことを、僕は見た。
 僕は――、
「……じゃあね。」
 僕は手を降ろして、そう言った。
「……うん。」
 彼女は笑った顔をして、そう言った。
 その顔はなぜかいつものような、バカっぽいあの笑顔じゃなかった。
 彼女が振り返って、歩き始めた。僕の目の前で、彼女の背中が一秒ごとに離れていく。彼女が僕から離れていくごとに、僕の周りにまた新たなカスが降り積もった。
 僕は今度こそ、今も過ぎていった一秒のことを考えて憂鬱になった。
 一秒ごとに一秒の価値がなくなって、一秒ごとに一秒が過ぎていくことに興味がなくなっていく。いつの間にか周りに積み上げられていたカスの山に気付いて、唯一発することのできる感想を、僕は知っている。
“あっという間”。
 世界は止まらない。
 僕はその中で、差し伸ばされた手を救うことも、その手に縋ることもできない。
 加速していく時間の中で、その手をただ握ることすらできない。
 その手を掴んで、君一人止めることができない。

 一秒――、
 僕は振り返って、その時間を数えた。

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